2011年06月27日

●「山縣有朋と日本の官僚制度」(EJ第3085号)

 最大の懸案であった特例公債法の成立の確約を含む50日の国
会延長──民主党執行部が必死になってまとめてきた野党との合
意案を蹴っ飛ばして70日延長で押し切った菅首相。これで特例
公債法の成立の見通しは不透明になりましたが、菅首相が一向に
ひるまないのにはワケがあります。
 今年度予算の財源の40%を占める赤字国債を発行するには、
特例公債法の成立が不可欠であり、6月中に決まらないと予算が
足りなくなってしまうのです。本来であれば、今年度予算案と同
時に成立していなければならない法案なのです。
 それにもかかわらず、菅首相が強気なのは財務省の幹部から次
の耳打ちがあったからなのです。
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 10月〜11月ぐらいまで予算は持つ。特例公債法はそれま
 でに成立させればよい。
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 予算の40%ですから、常識的には11月まで持つとは考えに
くいですが、どこからかカネを持ってくるのでしょう。財務省と
しては消費税増税のことがあるので、それまで何とか菅首相を続
投させたいのです。省益にかなう首相だからです。
 この財務省の耳打ちで菅首相はがぜん強気になったのです。要
するに内閣ではなく財務省が国をコントロールしているのです。
これは本来あってはならないことであり、異常な事態です。
 日本の官僚制度がこのようなかたちになっていることについて
ウォルフレン氏は、明治の元老のひとり山縣有朋の存在を上げて
いるのです。年配者や歴史に興味のある人は別として、山縣有朋
といってもピンとこないかもしれません。第3代内閣総理大臣、
日本陸軍の基礎を築いた「国軍の父」というエライ人という印象
を持っている人が多いと思います。しかし、ウォルフレン氏の山
縣有朋の評価は最悪であり、次のように述べているのです。
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 少数の独裁者のなかには国にとってまったく有害な者もいた。
 政治の健全性を損なった悪者を一人だけあげるとすれば、私は
 山県有朋を選ぶ。彼はまったくよこしまな人で、漠然とした不
 安からくる性格的な問題をかかえていた。それは彼が非社交的
 かつ陰険な態度で周囲の人びとに接したことからも明らかだ。
 また、日本の社会をいっそう閉ざされたものにしたやりかたか
 らも明らかだ。山県は、政治における代議制度という考えかた
 そのものを非常に嫌悪し、一連の複雑な規則をつくって、選挙
 で選ばれた政治家が日本の官僚を決して掌握できないようにし
 た。近代日本にとって、山県が「近代官僚制度の父」であり、
 「陸軍の父」であったことは、最大の不幸だった。彼が長生き
 したのも不幸だった。
      ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/鈴木主税訳
   『人間を幸福にしない日本というシステム』/OH!文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウォルフレン氏の山縣有朋の評価はこのように厳しいものです
が、ほかの人はどう評価しているのでしょうか。山縣有朋が何を
やったかはあとで述べることにして、司馬遼太郎氏の著作から山
縣の評価を拾ってみることにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎山県に大きな才能があるとすれば、自己をつねに権力の場所
 から離さないということであり、このための遠慮深謀はかれの
 芸というべきものであったが、同時にこの新しい国家の建設の
 ためによく働きもした。それについての彼の芸は、官僚の統御
 であった。
 ◎いわゆる明示的な天皇絶対制の基礎をつくったのが大久保利
 通であり、それを憲法によって制度化して、大久保の思惑より
 も明朗なかたちにしたのが伊藤博文であり、その明色を暗色に
 しておもくるしい装飾をほどこしたのが山形だと思っている。
 いずれにせよ山形の帝王美学は日露戦争前のロシアゆきによっ
 て着想された。    http://zoompac.exblog.jp/13733154/
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 初代内閣総理大臣の伊藤博文や第2代の黒田清隆は、官僚では
なく、政治家にもっと主導権を与えるべきであるという要望を取
り入れるべく努力したのですが、山縣有朋が総理になると、それ
を退け、官僚主導を強化したのです。まず、彼が手がけたことは
官僚機構を政権政党による政策決定の枠外に置くことによって、
官僚の人事から政治家から遠ざけたことです。官僚の人事は官僚
が決めるということです。これは現在まで続いています。
 山縣は、自分の決めた制度が自分の死後、変更されることを懸
念し、いくつか手を打っています。彼は、内閣は枢密院の命令に
遵守すべきものと定め、枢密院に自分が講じた仕組みの監視役と
して機能させたのです。
 こういう仕組みを作ったうえで山縣は、枢密院にはかられるべ
きいくつもの「勅令」を天皇に出させたのです。勅令とは、日本
においては天皇が発した法的効力のある命令のことです。山縣は
天皇の使い方が非常に巧妙だったのです。天皇の勅令に誰も逆ら
えなかったからです。このようにして、官吏登用試験、任命、規
律、解任、序列に関するさまざまなものがどんどん決まっていっ
たのです。
 山縣有朋は政治家の台頭を恐れており、過激な政治弾圧を行っ
ています。明治33年(1900年)3月には、政治結社・政治
集会の届出制および解散権の所持や軍人・警察官・宗教者・教員
・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟
勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた治安警
察法を制定し、政治・労働運動などを弾圧したのです。
 山縣有朋のやり方は20世紀の最初の40年間、日本の政治や
省庁──とくに内務省の体質作りに決定的な影響を及ぼしたので
す。           ─── [日本の政治の現況/11]


≪画像および関連情報≫
 ●山縣有朋についての情報
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  明治の元勲として陸軍の基礎を作ったことから、軍部への影
  響力は大きなものがあった。山縣はこれと見込んだ軍人や官
  僚を要職につけて見捨てることがなく、これが自然と「山県
  系」ともいえる人脈を形成した。しかしこれは同時に元長州
  藩出身の人材ばかりを要職に就かせる手法にも見え、長閥と
  して嫌う者も非常に多かった。また近代日本初の大掛かりな
  汚職疑惑に絡み、江藤新平をいただく司法省の厳しい追及に
  あって一旦は辞職もしている(山城屋事件)。
                    ──ウィキペディア
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山縣有朋.jpg
山縣 有朋
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の政治の現況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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