2011年06月22日

●「姿なき権力者とは何か」(EJ第3082号)

 日本という国の最大の権力者は誰なのでしょうか。
 はっきりしていることは、それが内閣総理大臣ではないことで
す。今回の菅首相をめぐる騒動で、総理大臣がいかに大きな権力
を持っているかを再認識した人は多いと思います。その総理を辞
めさせようとしてもそれが果たせないからです。それでも総理大
臣よりもさらに強い権力を持っている組織があることは確かなこ
とです。しかし、その姿はよく見えないのです。
 まさに「姿なき権力者」という表現が的を射ています。姿が見
えないので、権力の行使に反対することも、抵抗することも何も
できないのです。これでは国民は泣き寝入りをせざるを得ないこ
とになります。
 この平成の世の中でも「姿なき権力者」は存在し、権力を行使
しています。そのほとんどは既得権者の利益を守り、国民に痛み
を押し付けるものばかりです。身近な例を上げましょう。
 現在日本は、東日本大震災で未曽有の危機に瀕しています。そ
の日本で被災地の支援がほとんど進んでいないのに、被災地支援
とはまったく関係ない消費税増税案が急ピッチで進められていま
す。これはきわめておかしなことですが、このプロジェクトだけ
がすべてに優先して急ピッチで進められているのです。それに加
えて、復興に関わる資金までも別の増税で賄おうとしています。
とんでもないことであると思います。
 それは菅首相率いる民主党現政権がやっていることであるとい
う人がいるかもしれません。確かに直接的にはそうです。しかし
現政権がそうさせられているという見方もあるのです。「姿なき
権力者」の力がそこに強く働いており、現政権はそうせざるを得
なくなっていると思うのです。
 「姿なき権力者」とは何か。
 カレル・ウォルフレン氏は、外国人であるのにその謎に果敢に
挑戦し、かなりその核心に迫っています。いや、外国人であるか
らこそ、日本を客観的に分析することができるのでしょう。
 しかし、どのように虐げられても日本人は、政治的なことには
無関心であり、おとなしいのです。もし、外国であれば確実に暴
動が起きるようなときにでも、日本ではほとんど反応しないので
す。それは調和のイデオロギーが「対立」を押え込んだ結果であ
る──このようにウォルフレン氏はいうのです。
 ウォルフレン氏は、1990年(原書は1988年)に上梓し
た著書において、日本人について、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 無数の政治的勢力が、しかも、それぞれがその気になれば国家
 を揺るがしうるだけの力を有し、自分の利益を守ろうとひしめ
 き合うなかで、責任をとるものがまったくいなくても社会的混
 乱が起こらない。それどころか、社会の秩序正しさと人びとの
 規律正しさというのが、日本の際立った特徴である。これでは
 どこか別のところになにか非常に有力な政治的勢力があって、
 それが結合力のもとになっているにちがいないと思ってしまう
 人もいるだろう。カレル・ヴァン・ウォルフレン著/篠原勝訳
            『日本/権力構造の謎』上/早川書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在の日本の政治の原点は明治維新にあります。「太政官」と
いう制度を頭に入れておく必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
                I── 右大臣
      天皇──太政大臣──I── 左大臣
                I── 参 議
―――――――――――――――――――――――――――――
 明治政府は、主権者である「天皇」の下に政府の総責任者であ
る「太政大臣」が設置されています。その太政大臣の下に「右大
臣」「左大臣」「参議」という3つの職制が並列的に配置されて
います。この3つの職制の主座は「左大臣」です。これら4つの
職務全体を「太政官」というのです。
 本来太政大臣は具体的職掌がなく、功労者を処遇する名誉職で
あり、常設の職ではなかったのです。そのため、左大臣が太政官
の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催したのです。
 しかし、左大臣も常設の職ではなく、そういうときは右大臣が
その職務を代行をしたのです。右大臣の下には、次の10省から
成る行政機関が配置されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
         大蔵省     宮内省
         外務省     工部省
         陸軍省     文部省
         海軍省     内務省
         司法省     北海道開拓使
http://page.freett.com/sukechika/meizi11/05settei/meizi09-1-1.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら太政官の制度外に、各省庁の上位に元老院──上院と称
する法律案審議機関があります。そして、これと対になる下院と
いう立法機関もあるのです。しかし、欧米諸国の真似をして上下
両院を設置したのですが、かたちだけのもので終っています。
 立法機関としての元老院には、実際には省庁の役職からあぶれ
た土佐藩出身の維新志士が多く配置され、元老院議員はその肩書
を利用して自由民権運動に走ったのです。
 明治政府組織は、明治初年より何回も整備統合が行われ、2〜
3年で全く政府の機構が変貌してしまうこともたびたびあったの
です。しかし、組織は次第に強固なものになって行き、明治11
年(1878年)には、ほぼこのかたちの政府組織が編成された
のです。しかし、選挙で選ばれる政治家が登場するのは、自由民
権運動、国会開設運動を経て、明治23年(1890年)の帝国
議会まで待つことになります。その間に官僚機構はかなり緻密が
かたちででき上がっていたのです。
             ─── [日本の政治の現況/08]


≪画像および関連情報≫
 ●元老院とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  元老院は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の
  改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後
  に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだ
  けになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官。187
  5年に大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退助らの大阪
  会議での合意に基づき、続いて出された立憲政体の詔書によ
  り、1875年4月25日左院にかわり設置された。当初は
  正副議長各1名が置かれ定員は無制限とされたが、程なく財
  政上の都合から同年11月25日に職制が改正されて正副議
  長各1名とこれを補佐する幹事2名(1886年廃止)、そ
  の他の議官28名の計32名が定数とされた。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

元老院.jpg
元老院
posted by 平野 浩 at 04:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の政治の現況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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