2011年06月15日

●「カレル・ウォルフレンとは何者か」(EJ第3077号)

 『誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者、カレル・ヴァン・ウォ
ルフレン氏の考え方を中心にしばらく述べることにします。
 ウォルフレン氏といえば1994年にも次の本を上梓し、33
万部のベストセラーを記録しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   カレル・ヴァン・ウォルフレン著/新潮OH!文庫
      『人間を幸福にしない日本というシステム』
―――――――――――――――――――――――――――――
 驚くべきことにウォルフレン氏は、この本で小沢一郎氏の政治
家としての能力を高く評価し、その時点で、いずれ官僚側の抵抗
により、その手先である検察によって狙われるであろうと予言し
ているのです。そして、「日本のアドミニスレーターズ」として
中央官僚──とくに財務官僚、経団連、大銀行などの大企業・団
体複合体の存在を上げているのです。
 表向きは議員内閣制による政治家はいるものの、実際に国を動
かしているのは官僚であるということを証拠を多数上げて説明し
ています。官僚は「説明責任」(アカウンタビリティ)がないた
めに「非公式な権力」であるが、権力であることに変わりはない
としています。ちなみに、「説明責任」という言葉は、この本か
ら広く使われることになるのです。
 参考までに、この本についてのレビューをひとつご紹介してお
きます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 本書は極めて鋭い視点から理論的に日本の社会を斬っている。
 誰もが薄々と感じながらも具体的には把握できない日本の社会
 における「シカタガナイ」ことがおきる原因を指摘。著者は、
 オランダ人であるが故に西欧中心主義者のレッテルを貼られ、
 「外人の戯言」と一蹴されることもあるようだが、外国人であ
 ることを忘れて読めば、あまりに的を得た説明に驚かれるだろ
 う。自分の国、価値観、文化をかなり刺激する文章に抵抗感を
 感じるかもしれないが、冷静に読み解いていくと、なるほど、
 「シカタガナイ」と諦めることがいかに空虚で愚かなことなの
 か気づいてくる。読み終えたところで無力感に襲われるか、希
 望に満ち溢れるかは本人次第だが、本書は確実に日本をより良
 くするためのヒントを与えてくれるだろう。  ──CyberPunk
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウォルフレン氏が『人間を幸福にしない日本というシステム』
を上梓した1994年といえば、その1年前に小沢氏が自民党を
離党して新生党を結成し、細川護煕氏を首相として非自民連立政
権を樹立しているのです。また、1993年5月に小沢氏は自身
政治ビジョンを示す『日本改造計画』(講談社刊)を上梓してお
り、自らの政治の道筋を明らかにしています。
 ウォルフレン氏は1993年の政変を日本の政治の歴史におけ
る一大変化としてとらえ、それを成し遂げた小沢一郎氏を希有の
政治家として評価しているのです。ウォルフレン氏は近著では、
そのときのことを次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 後でふり返ってみたとき、一九九三年の政治変動こそは連綿と
 受け継がれてきた日本の政治システムの仕組みに大きな風穴を
 開けた、歴史的な事件であったことがわかる。その結果、人々
 は日本の政治を新しい視点でとらえるようになった。つまり、
 小沢氏らの行動は、単に政党政治というシステムの構造を変え
 るにとどまらず、日本の一般の人々の政治に関する考え方まで
 も一変させてしまったのである。このときから、自国の将来を
 心配する心ある日本人たちは、日本の政治システムを変えるべ
 きだと考えるようになった。
       ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/井上実訳
         『誰が小沢一郎を殺すのか?』/角川書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 さらにウォルフレン氏はかなり前から日本の首相は公式に認め
らけれているはずの権力を実際に有していないのではないかと考
えており、ウォルフレン氏のもう一冊の本では、次のことを主張
しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の権力システムには政治責任の所在としての中枢が欠如
 している。──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/篠原勝訳
            『日本/権力構造の謎』/早川書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 前述したようにウォルフレン氏についていちばん驚くべきこと
は、何といっても1994年の時点で小沢氏がやがて検察に狙わ
れるようになることを指摘していることです。なぜなら、この時
点では小沢氏は剛腕ということは知れわたっていたものの、いわ
ゆる疑惑らしいものは何もなかったからです。
 ただ、小沢氏が田中角栄や金丸信という特捜部によって起訴さ
れた政治家の弟子であるということから、連想的に「きっと悪い
やつだろう」という憶測があったことは確かです。しかし、その
時点で彼は何もしていないし、何の疑惑も存在しないのです。
 これについては改めて述べるが、ウォルフレン氏は日本政治の
特殊性を実に的確に把握していて、小沢氏の政治行動がさらに強
化されると、中央官僚──とくに財務官僚、経団連、大銀行など
の大企業・団体複合体にとって都合の悪いことが起きるので、そ
の手先ともいうべき検察によって何らかの阻止行動が起きること
を予測したものと思われるのです。
 ウォルフレン氏の指摘、いや予言は見事に的中し、現在小沢氏
は二重三重にがんじがらめの状態にあります。しかし、それでい
て小沢氏は、6月はじめの自民党提出の不信任案賛成のための一
種のクーデターを成就させる寸前まで持って行っているのです。
本当に成立する可能性があったからこそ、菅首相は退陣表明をせ
ざるを得なかったのです。 ─── [日本の政治の現況/03]


≪画像および関連情報≫
 ●『日本/権力構造の謎』/早川書房のレビューより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本にいるとその中からは見えない「日本の“権力”が力を
  持つ構造」を、じつに明快にえぐり出してくれています。こ
  の本を読んで改めて「ほりえもん問題とは何だったのか?」
  「小沢対検察のせめぎ合い」といった現象を考え直すと、著
  者の指摘する日本の権力構造とは何か、また欧米との違いは
  といったことがあぶり出されてきます。さらには、今の民主
  党政権のアキレス腱は、この権力構造へのチャレンジとなっ
  ているにもかかわらず、有効な戦略を打ち出せないでいると
  ころにあることも見えてきます。      Bytsukihoshi
  ―――――――――――――――――――――――――――

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏.jpg
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 日本の政治の現況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
何事につけても新しがり屋の日本人が、時代遅れの精神生活を送っているのはどうしたわけか。

日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、意思を恣意と間違って解釈することになる。
すると、以下のようなことが起こる。

西洋文化の輸入も、意思がなければ支障をきたす。
意思の自由は考えられるが、恣意の自由は考えられない。
恣意の自由は、<自由のはき違え> となり、自由主義の普及も難しい。
意思は自由主義・個人主義の友人であり、恣意は利己主義は不自由主義の友人である。
不自由を常と思えば不足なしか。

政治指導者の意思決定はなく、その恣意決定は受け入れない。
意思の表明は成り立つが、恣意の表明は成り立たない。
日本人の声明発表はうつろに響く。その形式的な声明には、実行の意思がないからである。
そして、きれい事というか、空理空論には現実対応策が欠落している。ああ、むなしい。

意思があれば、罪もある。
殺意があれば、殺人罪である。
殺意がなければ、たとえ人は死んでも、死刑執行人は罪に問われることはない。

日本人には意思がない。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。

意思薄弱とも思える日本人の社会では、意思を確かめることは難しい。
人々は個人の意思を確かめるこなく、個人の恣意に関する察しに専念する。  
察しにたけた人物は、思いやりの深い人間として信頼されている。
だから、裁判員になることについて、日本人には多大な精神的抵抗がある。
罪の意識のない社会では、人々は罪を裁くことを望まない。<責任者を出すな> と叫ぶ。

日本人には、意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。
成案はないが、腹案がある。
意思・成案を表すのには、文章が必要である。相手がその矛盾を指摘することもできる。
だが、恣意 (私意・我儘・身勝手)・腹案には、文章は必要ない。
恣意的な人間は、言語に不自由をしている子供・アニマル同然である。大和魂の持ち主のようなものか。ど根性か。

日本人が子供に見えるのはこの時である。
周囲のものが指導者の意思を察するのである。ただ意向というか、はっきりしないものを察するのである。
政治家と公設秘書のようなものか。一致団結して阿吽の呼吸でやる。
俺の目をみろ 何んにもいうな 男同志の 腹のうち。腹案がある。共謀関係の立証は難しい。
察しは他人の勝手な解釈であって、いざ罪のありかを定める議論になれば、それでは証拠不十分となる。
意思の存在を認めることのない社会で、意思の有無を確認することは難しい。

腹案の内容は、腹を割って見せなくては知られない。隠ぺい体質の産物である。
それには談合が必要である。小言、独り言の類が語られる。
内容は、決して公言・宣言としては表明されることはない。

恣意を文章にすることは、英米人はやらない。
理性を失うことは、恥ずかしいことだからである。
やれば、周りの者から嘲笑される。
彼らは、'Shame on you!' (恥を知れ) と言って、相手をしかりつける。
だが、これを日本人はやる。この種の恥は、日本人にはない。
これを '本心をさらけ出す' と言い、内々で甘えさせてもらうのである。
相手は、'真意は何か' と尋ねる。
この行為が英米人の日本人に関する不思議である。

恣意的な人間は、滅私奉公により調教された。わが国の伝統的な人間教育は、序列人間を作ることである。
意思を認めることのない社会での責任者探しは難しい。無責任な社会では、それ特有の犠牲者を出さなくてはならない。
だから、日本人は恣意の理不尽に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで生活する必要があると教えられている。

意思があれば、その内容も明らかにすることができる。
意思の内容に賛同して、協力者も現れる。
恣意であれば、その内容も明らかにすることがでない。
恣意は誰もが嫌うので、協力者が現れることもない。
日本人は、戦争のときでさえ、絶対的な権力者を作ることはなかった。

文章が無くては、議論は始まらない。
無理が通れば、道理が引っ込む。だから、問答無用である。
上下関係で決着をつける勝負の世界である。猿山のサルと同じかな。
自分の(恣)意のままにならぬ相手を切って捨てるところが恐ろしい。

世俗的なものの上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることも難しい。
日本人の礼儀作法は、序列差法だからである。序列なきところに礼儀なし。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

Posted by noga at 2011年06月15日 05:34
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