2011年06月14日

●「官僚システムと政治家の関係」(EJ第3076号)

 「戦後レジームからの脱却」を掲げてスタートした自民党の安
倍政権ですが、期待を裏切り、一年もたずに政権を投げ出してい
ます。安倍政権は教育改革をはじめとするさまざまな改革をやろ
うとして発足したのですが、まったく何もできなかったのです。
 これについて、経済産業省大臣官房付の古賀茂明氏は、戦後レ
ジームの中核が官僚システムそのものであることを指摘したうえ
で、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 大きな改革を行えば、必ず現行のシステムに寄生した既得権グ
 ループが被害を受ける。業界も族議員も、そしてそれと一体と
 なった官僚も被害者になる。さらに、既得権グループが本気で
 抵抗してくるときに、抵抗のための理論的支柱を提供し、世論
 対策や国会対策等すべての面で高度な戦略を立て、事実上の司
 令部となるのが霞が関の官僚システムである、ということに改
 めて気づいたのではないか。大きな改革を成し遂げるには、な
 によりも抵抗勢力の中心的存在である官僚システムを変えなけ
 れば、結局、改革は絵に描いた餅に終わる。 ──古賀茂明著
               『日本中枢の崩壊』/講談社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在、日本の天皇は憲法上象徴天皇になっています。これは、
日本が太平洋戦争に負けたことによる、やむを得ざる政治体制と
考える人も多いですが、天皇が象徴天皇であった時代はかなり長
いのです。ちなみに江戸時代は、徳川家が政治を握っており、天
皇は象徴的存在であったといえます。
 しかし、明治維新は「王政復古」と呼ばれるように、天皇が中
心になって政治を執り行う「太政官制」と呼ばれる朝廷の伝統的
な政治体制が採用されたのです。
 この太政官こそ天皇を支える官僚であり、太政官制が現在の官
僚制度そのものなのです。つまり、当時の官僚は権力の中枢にい
て支配者の一翼を担っていたのです。そして最後は天皇の裁可を
仰ぐものの、実際に政治を行っていたのは官僚たちであったとい
えます。政党政治による政治家が登場するのは、明治14年(1
881年)になってからです。したがって、「官僚=公僕」とよ
くいわれますが、明治維新では官僚は天皇を支えるのが職務であ
り、体制側、すなわち権力側の存在であったのです。
 しかし、戦後になってGHQは天皇は象徴天皇にしたものの、
戦前の官僚機構はそのまま残したのです。これによって官僚たち
はそのまま権力側に居座ったのです。もちろん政治家はいるので
すが、長年にわたる情報の蓄積と経験、それに磐石な組織力を持
つ官僚には逆らえない構造がそこにはあるのです。
 この明治初期の日本の政治機構について、アムステルダム大学
教授であり、ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン氏
は次のようにいっています。ウォルフレン氏は2011年3月に
『誰が小沢一郎を殺すのか?』という書籍を上梓し、話題を呼ん
でいるオランダ人ジャーナリストです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 明治政府が発足すると、体制づくりにたずさわったこうした少
 数の権力者たちはおもな政治・経済機構のリーダーになった。
 彼らは省庁を率い、その発展に寄与した。あるいは枢密院とい
 う、明治憲法体制下での国政に関する天皇の最高諮問機関を創
 設した。初期の経済機構を率いた者もいた。要するに、彼ら自
 身が封建体制の大名に代わる、新しい日本の統治者となったわ
 けである。ただし明治維新後に治めたのは藩ではなく、それぞ
 れの管轄領域に分かれた官僚機構であり、その頂点に君臨した
 のが彼らだった。ただし自分が獲得した特権を政敵に奪われる
 ことのないよう、熱心に守りを固めたという点で、彼らは封建
 領主となんら変わらなかった。そんな彼らはもちろんのこと、
 選挙によって継承者が決定されるような民主主義へと日本が向
 かうのを、決して許そうとはしなかった。
       ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/井上実訳
         『誰が小沢一郎を殺すのか?』/角川書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 こういう官僚システムが一応できた頃に、有司専制の批判から
板垣退助や後藤象二郎らによって「民選議院設立建白書」が提出
され、自由民権運動がはじまるのです。この建白書は、政府に対
して最初に民選の議会開設を要望した文書です。
 それは、政治権力が天皇にも人民にもなく、ただ官僚にあるの
を批判した文書であり、有司専制の批判なのです。これを解決す
るには、「天下ノ公議」を張ることにあり、「天下ノ公議」を張
るとは「民選議院」を設立することであるとしているのです。こ
れによって、有司専制を押えようとしたのです。
 木戸孝允はあくまで国民の意思に責任を持つ立憲政体が必要で
あるとは感じていたのですが、それが根付くには相当の時間がか
かると考えていたのです。
 これに対して大久保利通や伊藤博文らは、最初のうちは日本で
は欧米の議会制度は適さないと考えていたものの、西欧諸国の視
察を重ねるなかで、政党政治なくして日本は西欧諸国に追いつく
ことはできないことがわかってきたのです。
 ところで日本では、「党」というと児玉党や村上党などという
ように武士団を意味する用語であったのですが、幕末には「土佐
勤王党」などのように公論を主張した党派が誕生し、自由民権運
動の高まりによって、議会政治における政党システムに着目する
人が多くなっていったのです。
 このようにして登場した政治家は、国家の中枢を担う大久保利
通や伊藤博文ら官僚(有司)にとって、体制側を脅かす危険な存
在としてとらえられていたのです。したがって、その力をセーブ
するために官僚システムを強化しようとしたのです。この考え方
によって、とくに力のある改革政治家は危険な存在としてとらえ
らるようになったのです。 ─── [日本の政治の現況/02]


≪画像および関連情報≫
 ●自由党と立憲改進党の設立
  ―――――――――――――――――――――――――――
  勃興する自由民権運動に対して、明治14年(1881年)
  明治天皇の御名で「国会開設の勅諭」が下り、明治政府は、
  明治22年(1899年)に議会を開設することを国民に約
  束した。これにともない、明治14年自由党が板垣退助を中
  心として、翌明治15年(1882年)立憲改進党が大隈重
  信らによって結成される。また、福地源一郎ら親政府の要人
  による立憲帝政党も結党された。だが、政府は「超然主義」
  の方針を打ち出す一方、自由民権運動の弾圧強化に乗り出し
  た。このため、自由党は一時解散に追い込まれ、立憲改進党
  は分裂状態となり、立憲帝政党も政府から見捨てられる形で
  自然消滅を余儀なくされた。     ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

i古賀茂明氏の本.jpg
古賀茂明氏の本
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 日本の政治の現況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
【ちぃちぃぱっぱちぃぱっぱ(TTPPTPP)あへあへ心臓腸脳病弱売国奴盗リ漏ロス首相】

小泉売国奴劇場詐欺師の後継お稚児として第一次安倍内閣を作ってすぐぶち壊した安倍晋三。第二次安倍内閣は選管ムサシが捏造した憲法破壊テロリスト内閣であるが、やはり腸脳心臓ともに病弱で総理の業務が遂行できない不適格者である故に憲法70条適用(総理罷免内閣総辞職)が「日本を守る」ために最重要有線議決事項である。
その国家防衛円防衛に直結する必要性重要性は安倍晋三の出自を見ることによっても証明される。下記参照

ネットゲリラ氏のブログ「お里が知れるという噺」より転載。

http://blog.shadowcity.jp/my/2013/02/post-2203.html#comment-1022827
通りがけから野次馬さんは男前への返信 | 2013年2月22日 08:43 | 返信
>> 野次馬さんは男前 | 2013年2月22日 02:20 | 返信
>26>義侠心篤く大衆に人気のあったひい爺さん(全身に入れ墨あり) の娘を寝取った元朝鮮銀行勤務の爺さんとその子供(進次郎の親父)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この構図が面従腹背対米独立派首相岸信介の出来損ないな恥孫である下痢脳あへ心臓雨ぽちオカマ現総理とそっくりなわけで、それゆえ小泉売国劇場詐欺師首相の後継者が小泉竹中アメぽち男娼スパイ政権時代から安倍シンゾウだったということだろうねw
なるほど、よーくわかったわいw(転載終わり)
Posted by 東行系 at 2013年02月22日 10:48
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