で実現された構造改革であるといえます。外国が一番驚き、理解
できないといっているのが、版籍奉還と廃藩置県であり、その実
施の異常な早さなのです。
版籍奉還というのは、明治2年(1869年)7月25日に日
本の明治政府により行われた中央集権化事業のひとつです。諸大
名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還するというも
のです。発案者は姫路藩主酒井忠邦であるといわれます。それと
藩を廃止し、県に置き換える改革が廃藩置県です。
これは藩主という権力者が自分の権力を投げ出し、その基盤ま
で解体してしまうことを意味しています。西洋の改革では、権力
者が自分からそういうことをするのはあり得ないことであり、そ
のため、明治維新は理解できないというのです。
これについて、元参議院議員の小島慶三氏は自著で次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
フランス人のマーシャルという評論家が書いたものを見ると、
これはハッピー・デスパッチ(腹切り)であるというふうに理
解している。それしか理解のしようがない。また『自死の日本
史』という本を書いているパンゲも同様の考えで、明治一〇年
の西郷南洲の西南戦争も、別に新政府を滅ぼすとかということ
ではなく、やほり武士としての儀式であるというふうに見てい
る。それくらい西洋人には明治維新の改革は理解しにくい点が
ある(林屋辰三郎『文明開化の研究』)。
──小島慶三著/中公新書1316
『戊辰戦争から西南戦争へ/明治維新を考える』
―――――――――――――――――――――――――――――
実は、そのあり得ないことを可能にしたのが戊辰戦争だったの
です。いろいろの要件がありますが、戊辰戦争によって次の3つ
のことが従来の藩体制に大きな影響を与えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
1.戦争参加により藩の財政が破綻したこと
2.君臣主従のイデオロギーが転換したこと
3.農民が強くなり、従来の身分制度が崩壊
―――――――――――――――――――――――――――――
明治維新を「無血革命」という表現をする人がいますが、そん
なことはないのです。戊辰戦争という大変大きな戦争をやってい
るからです。諸説がありますが、両軍の戦死者は約1万人、動員
されたのは新政府軍が12万人、旧幕府軍が5万人で、合わせて
17万人です。日清戦争のときの動員数である12万人を上回っ
ているのです。
藩体制に影響を与えた第1は「戦争参加により藩の財政が破綻
したこと」です。
藩財政はもともと逼迫しており、それが戦費の支出によって極
度に悪化したのです。それは、朝敵側に回った藩も新政府側の藩
も同様であったのです。それぞれの藩が自立してやっていくこと
が難しくなったのです。
この藩の極度の財政逼迫が、版籍奉還と廃藩置県をスムーズに
進ませる原因になったのです。その結果、中央集権化が進行し、
有司専制という政治が行われるようになります。
藩体制に影響を与えた第2は「君臣主従のイデオロギーが転換
したこと」です。
戊辰戦争ではいわゆる1対1の構造のチャンバラは役に立たず
鉄砲を扱う兵隊が大活躍したのです。刀尊忠剣の考え方に立つ武
士たちは鉄砲を扱う兵を蔑視したのです。しかし、実際の戦闘で
は刀や剣や槍はほとんど役に立たなかったのです。戦死者のほと
んどが砲弾や銃弾による死者であったことからも、それは明らか
なことです。
戦争では身分の上下があると、どちらが先に行くかというつま
らないことが問題になり、横列展開の近代戦ができないのです。
そこで兵には最下級の身分の者が選ばれ、大活躍したのです。全
員参戦の戦闘様式でなければ、外国に対抗できる軍隊は創設でき
ないということで、後に徴兵制が出てくることになります。
その結果、従来の君臣主従のイデオロギーが崩れ、封建武士団
の特権が消滅したのです。
藩体制に影響を与えた第3は「農民が強くなり、従来の身分制
度が崩壊」したことです。
軍隊には農民が動員され、活躍したことによって農民が力を得
ることになります。その結果、明治10年(1877年)頃まで
は百姓一揆が頻発し、国内は乱れたのです。百姓一揆の数は幕末
よりも明治初期の方がはるかに多かったといわれます。
このように戊辰戦争は、明治以後の世界に劇的な変化をもたら
したのです。このテーマの第2部に書くことですが、明治維新の
三大改革といわれるものがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
1.徴兵制度
2.地租改正
3.学制改革
―――――――――――――――――――――――――――――
「徴兵制度」は軍隊の近代化の必要性から生まれてきたもので
す。「地租改正」は、武士社会の解体に伴い、社会福祉政策とし
ての秩録処分──武士という職業を離れることによる失業手当の
ようなもの──によってその資金が新政府財政の34%を占める
にいたり、財政上の必要性から実施されたのです。「学制改革」
は、天皇を中心とする体制についての思想教育を徹底させる必要
性から生まれた学制の導入を意味しています。
このように戊辰戦争をやることによって、維新の改革がまるで
雪崩を打つように巻き起こったのです。詳細はテーマの第2部で
ご紹介します。 ─── [明治維新について考える/83]
≪画像および関連情報≫
●「藩」について
―――――――――――――――――――――――――――
藩というと幕藩体制というように江戸幕府下の制度と思われ
がちだが、厳密には江戸幕府下の体制で公式に「藩」という
呼称はなかった(一部の学者などが書などで使用するのみで
あった)。ただし、幕末になると大名領を「藩」と俗称する
ことが多くなった。「藩」という名称は中国史による。明治
維新後、初めて藩という呼称が公式に使用されたが廃藩置県
で藩が消失するまでのわずか2年程度の行政区名称である。
──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――
小島 慶三氏の本
今までは、戊辰戦争を日本人が国内から見て、解釈してきましたが、今後は戊辰戦争を海外へ発信し、「外国人から見た戊辰戦争」は大切であると思います。今後とも、海外へ向けた記事を期待しています。