業は強くなる」という説を詳しくご紹介します。薩摩藩が戊辰戦
争でなぜあれほど強かったのかについてのひとつの説明です。そ
のポイントは次の4つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
1.大きな「赤字」を経験している
2.脱税の摘発をかわしてきている
3.深刻な労働争議を経験している
4.お家騒動を乗り越えていること
──加来耕三著
『大久保利道と官僚機構』より/講談社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
第1は「大きな「赤字」を経験している」です。
薩摩藩(正しくは鹿児島藩)は、もともと赤字体質なのです。
外様大名でありながら、最高石高は90万石であり、幕府は加賀
藩に次ぐ大藩として扱ってきたのです。しかし、薩摩藩の石高は
「籾(もみ)高」であって、実際は約半分程度なのです。
しかも、徳川幕府の有力藩弱体化政策の下で、薩摩藩は大規模
な御手伝普請を割り当てられ、とくに1753年(宝暦3年)に
命じられた木曽三川改修工事──宝暦治水の多大な出費により、
藩財政は危機に瀕したのです。
このような藩財政逼迫のときには、島津斉彬のような革新派の
名君があらわれるものなのです。藩の専売制、琉球貿易、借財一
切切り捨て政策など、大変な努力をして赤字を処理したのです。
その結果、他藩に先駆けて貿易立国に目覚め、備蓄を心がけて赤
字を乗り越えているのです。
第2は「脱税の摘発をかわしてきている」です。
薩摩藩が財政を立て直した政策のひとつが琉球貿易です。しか
し、これは「抜け荷」といわれ、禁制なのです。幕府から密貿易
の疑いをかけられ、何度も危ない橋をわたっており、すれすれの
ところで切り抜けてきているのです。しかし、少しずつ幕府の力
も弱まってきたこともあり、しだいに幕府検閲から逃れるすべを
マスターするようになったのです。
第3は「深刻な労働争議を経験している」です。
島津家は関ヶ原の戦いで西軍についたことによって、領土を縮
小されたのです。しかし、家臣たちを整理できず、特殊な方法で
士分の者を管理するシステムを構築したのです。
家臣を「上士」と「下士(城下士)」と「郷士」に分け、行政
上別区分にして家臣を統率したのです。上士は家老になれる家柄
で雲の上の存在です。城下士は城下に居住できましたが、郷士は
外城制といって鹿児島城下に集住させず、領内に分散した外城と
呼ばれる拠点に居住させたのです。
しかし、城下士と郷士は仲が悪く、つねに対立し、いがみ合い
藩としては困り果てていたのです。これは労働争議そのものであ
ると加来氏はいうのです。
しかし、薩摩藩の場合、このように反目しても、いったん戦争
などが起きると、一致団結してことに当たるという気風があった
のです。そのため維新後も城下士は近衛将校、郷士は警官となっ
てお互いに頑張っているのです。
第4は「お家騒動を乗り越えていること」です。
薩摩藩は上記の3つのポイントをすべて克服したうえで、有名
なお家騒動に巻き込まれているのです。激しいお家騒動を勝ち抜
いて藩主になった島津斉彬は、反射炉、溶鉱炉、洋式帆船の製造
やガラス工芸などの集成館事業と呼ばれる殖産事業によって薩摩
藩の発展の基礎を作りつつあったのですが、斉彬の急死によって
頓挫し、守旧派が復権します。
しかし、斉彬の死後実権を握った島津久光は、幽閉されていた
西郷隆盛を解放し、西郷をリーダーと仰ぐ若手改革派集団を抜擢
して、一応斉彬路線に戻したのです。久光と西郷の仲は必ずしも
うまくいってはいなかったものの、重要な場面では西郷を立てた
のです。薩摩藩はこのようにしてお家騒動を乗り切ったのです。
以上のような企業の麻疹の4つのポイントをすべてクリアした
薩摩藩は、とくに戊辰戦争など大事なときには一致団結して戦っ
たので、驚くべき強さを発揮して維新の主導権を握ったというの
が加来氏の見解です。
王政復古のクーデターともいうべき戊辰戦争の重要性を一貫と
して主張し、一歩も引かなかったのが大久保利通です。土壇場で
土佐の山内容堂や後藤象二郎、それに坂本龍馬、こともあろうに
岩倉具視までが、徳川慶喜が辞官納地に応ずれば、議定に任命し
政府に迎え入れてもよいではないかという考え方に傾きつつあり
朝議で武力倒幕を主張するのは大久保だけになったときがあるの
ですが、大久保は断固として一歩も引かなかったのです。
クラウゼウィッツ──対ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校
として参加し、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績
を示した人物──彼は戦いについて次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
戦いは推測の世界であり条件の4分の3までは不確実である
──クラウゼウィッツ
―――――――――――――――――――――――――――――
大久保利道も戦いが不確実なものであることはよく知っていた
が、ここは引けないと考えて、次善の策を考えていたのです。も
し、敗れれば、天皇を担いで広島へ、それでもダメなら山口へ、
鹿児島へと最悪の事態に備えた考え方を持っており、そのための
手を打っていたのです。驚くべき男です。こういう人材が危機に
瀕している今の日本になぜいないのでしょうか。
結果として、大戦争に発展した戊辰戦争をやったことによって
新政府づくりは実にすばやく見事に行われたのです。このことに
ついては明日書くことにします。
───[明治維新について考える/82]
≪画像および関連情報≫
●何をもって石高とするか
―――――――――――――――――――――――――――
穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼び、厚い外皮の籾
殻を取り去ったものが玄米、玄米の表面を覆う糠層(ぬかそ
う。主として果皮と糊粉層)を取り去ることを精白(精米、
搗精)という。糠層も胚芽も取り去った米を白米(精白米、
精米)といい、糠を除去したものを精米や白米という。収穫
した稲穂から、種子(穎果)を取り離すことを脱穀(だっこ
く)という。脱穀によって取り離した種子を籾(籾米)とい
い、籾の外皮を籾殻(もみがら)という。籾から籾殻を取り
去ることを籾摺り(もみすり)といい、この籾摺り過程を経
たものを米という。幕府は島津家の石高が籾高とみとめてい
たのである。 ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――
加来 耕三氏の本