れ、1年5ヵ月にわたる戊辰戦争は終りを遂げたのです。今回の
テーマは、次のタイトルで2011年2月7日(月)から書き始
めたので、戊辰戦争が終って明治新政府の時代に入るこれからが
本番ということになります。
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明治維新について考える/明治維新は「革命」なのか
── 官僚による政治支配の構造に迫る ──
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今回のテーマの狙いは上記サブタイトルの「官僚による政治支
配の構造に迫る」にあります。日本政治の背後に横たわる官僚支
配の構造が形成されたのは明治維新であり、それを究明するため
歴史という視点から迫ってみたのです。
しかし、今回のテーマは、本日で81回です。前回のテーマの
「新視点からの龍馬伝」が85回の連載であり、実際的には今回
テーマと続いているので、166回も歴史ものが続いていること
になります。
実は多くの読者から、現在の政治状況に関するテーマを取り上
げて欲しいという要望が寄せられているのです。そこで、今回の
テーマは今週中で終了し、6月13日から現在の政治状況につい
て書くことにします。そのタイミングはけっして悪くないと考え
ております。そして、今回のテーマの続編は、その後にさらに資
料を収集して連載することにします。
大久保利道──実は大久保利道こそ今回のテーマの第2部の主
役なのです。ここまで166回も幕末の出来事を書いてきました
が、大久保利道について書いたのはごくわずかです。これまでの
テーマで「大久保」といえば、旧幕臣の大久保一翁のことです。
まして戊辰戦争ではまったく登場していないのです。いったい彼
は何をしていたのでしょうか。
大久保利道は、戊辰戦争の終った後の新しい日本のプランニン
グに専念していたのです。そのようにして出来上がったのが官僚
主権国家構想です。彼は壮大なグランドデザインが描ける能力を
持っているのです。この官僚主権制度が明治維新以来140年間
にわたって現在も生き残っているのです。
これに比べると、現在の菅政権には国のグランドデザインを描
ける人材がいないと思います。だから震災復興が大幅に遅れてい
るのです。西郷隆盛は大久保利道と自分を比べて次のようにいっ
ています。
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もし一軒の家をつくろうとした場合、わたしは造築することに
おいて大久保よりはるかにすぐれている。しかし、建て終わっ
たあとに、造作をほどこして室内の装飾を整え、家らしく整備
するのは、大久保の天稟(天性)であって、わたしなどは雪隠
(トイレ〉の片隅を修理することすらできないだろう。ところ
が、この家屋をふたたび破壊することになったならば、大久保
もわたしに及びはしまい。 ──加来耕三著
『大久保利道と官僚機構』/講談社刊
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大久保利道は制度の草案を書くなど理屈が必要なときは、佐賀
藩出身の副島種臣の深い漢学素養を借り、法律を定める必要に迫
られると、副島と同じ佐賀藩出身の江藤新平にたのみ、軍事に関
しては、盟友西郷を使ったのです。そういう意味で大久保の周り
には人材が豊富にいたといえます。
大久保は大局を見る能力に優れていたのです。そして人材の能
力を見抜く力を持っていたのです。こんな話があります。戊辰戦
争の上野戦争のとき、指揮官が西郷ではなく大村益次郎に代った
のですが、薩摩藩の中ではこれに反対する者も多かったのです。
しかし、大久保は次のように大村を支持したのです。
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(上野戦争は)吉之助どんより、大村さのほうがふさわしい
──加来耕三著の前掲書より
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なぜ、西郷よりも大村の方がよいかは、上野戦争は局地戦であ
り、大村の方が優れていると判断したのです。西郷のスケールの
大きさは局地戦向きではないと考えたのです。
確かに大村は大久保の期待に応えて上野戦争に快勝し、東北戦
争では西郷のスケールの大きさが生かされたのです。大久保は軍
事の専門家ではありませんが、司令官を選ぶときなどに実に的確
な人事を行っているのです。
戊辰戦争についてかなり詳しく書いてきましたが、薩長を中心
とする新政府軍はまさに連戦連勝であり、向うところ敵なしの状
態であったのです。旧幕府軍自体が士気の面で大きく劣っていた
ということもありますが、それにしてもその強さは、半端ではな
かったのです。どうしてこんなに強いのでしょうか。
これについて加来耕三氏は、次のように興味深い観点からその
ことについて述べています。
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「どうして薩摩藩はあんなに強かったのでしょうかね」と質問
される。筆者は鹿児島県人ではない。答えは歴史的事実、「郷
中制度」を語るにとどめるのがつねだった。ところがあるとき
たぶん伊藤肇氏の著書だったと思うが、企業を「麻疹」にたと
えたくだりを読んだことをかすかに記憶している。つまり、麻
疹は人間が一度はかからねばならない病気であるが、企業にも
麻疹のようなものがあって、これをひと通りやった企業は体質
が強化され強くなれるという論法だ。企業の麻疹に、「赤字」
「脱税の摘発」「深刻な労働争議」「お家騒動」の四つをあげ
て説明していたように思う。 ──加来耕三著の前掲書より
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─── [明治維新について考える/81]
≪画像および関連情報≫
●大久保利道についてのエピソード
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金銭には潔白で私財をなすことをせず、必要だが予算のつか
なかった公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めるよ
うな有様だったため、死後は8000円もの借金が残った。
ただし、残った借財の返済を遺族に求める債権者はいなかっ
た。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費
として寄付した8000円を回収し、さらに8000円の募
金を集めてこの1万6000円で遺族を養うことにした。寡
黙であり、他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でも
あったため、面と向かって大久保に意見できる人間は、少な
かったと言う。桐野利秋も、大久保に対してまともに話がで
きなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようと
したが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれ、すぐ
に引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らし
た山本権兵衛さえも大久保の前ではほとんど意見できなかっ
たという。 ──ウィキペディア
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大久保 利道