2011年06月06日

●「榎本政権の崩壊/無条件降伏」(EJ第3070号)

 箱館戦争は勝敗の決着がついていたのです。問題はどのように
して、この戦争を穏便に終わらせるかです。慶応2年(1869
年)5月13日になると、新政府軍側から和議の働きかけが次々
とはじまっていたのです。
 五稜郭の中で高松凌雲によって開かれている箱館病院に会津藩
遊撃隊長である諏訪常吉が入院していたのです。その諏訪に薩摩
の池田次郎兵衛が見舞いたいという申し出があり、榎本側は了承
したのです。池田次郎兵衛は京都に役人として在勤しているとき
諏訪常吉と親交があったといいます。
 このとき、諏訪は見舞金25両を贈るとともに、榎本軍による
早期謝罪を求め、戦争終結を勧めたのです。そして、池田は、高
松凌雲院長、小野権之丞病院掛と相談し、和議の書を作成して、
五稜郭と弁天台場の双方に書簡を送ったのです。このとき、榎本
軍が支配していた拠点は次の3つになっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.   五稜郭
          2.千代ヶ岡陣屋
          3. 弁天台台場
―――――――――――――――――――――――――――――
 この和議の書を受け取った榎本武楊は、新政府が蝦夷地の統治
を認めない限り、恭順の意思はないとして断ったのですが、池田
次郎兵衛の尽力には謝意を示したのです。そして、自分がオラン
ダで入手した『万国海律全書』を薩摩の参謀衆に贈るとして、池
田に託したのです。この『万国海律全書』は海事に関する国際法
と外交に関する書物であり、当時貴重なものだったのです。榎本
としては、どうせ戦争になれば、燃えてしまうので、ぜひ日本海
軍のために生かして欲しいと考えたのです。
 このとき新政府軍参謀の黒田清隆は、これによって榎本が国際
法に精通していることに感銘し、その後、その知見を生かそうと
し、榎本の助命嘆願に奔走することになるのです。
 新政府軍の反応は非常に早かったのです。榎本のところに海軍
参謀衆の名前で酒樽数個が送られてきたのです。榎本と大鳥らの
士官はこの酒を飲み、ここは降伏しかないと考えたのです。
 新政府軍は、津軽陣屋の番所に軍監の田島敬蔵を派遣し、黒田
清隆と榎本武楊の面談を申し入れてきたのです。これについて榎
本は了承し、千代ヶ岡の郊外の民家でその会談は実現します。
 民家には黒田清隆が待っていて、2人は酒を酌み交わしながら
和気あいあいと話し、時折笑い声が聞こえたといいます。黒田と
しては、幕臣として戦いを起こし、ここにいたっても戦いを続け
ようとする榎本に感服していたのです。自分がもし幕臣だったら
同じことをしただろうという思いからです。
 戦いの帰趨は明らかであったのですが、榎本は降伏勧告を拒絶
し、五稜郭にいる傷病者の搬送を申し入れ、了承されたのです。
新政府軍は攻撃を中断し、傷病者はその日のうちに湯の川へ送ら
れ、新政府軍の捕虜である松前、津軽藩兵11名も送り返された
のです。
 5月15日に弁天台場は正式に降伏し、籠城兵は20日に市内
の寺院に移送されることになったのです。榎本は千代ヶ岡陣屋を
守る中島三郎助に五稜郭に入るよう説得したのですが、中島は首
を縦に振らず、最後まで陣屋を死守して玉砕しています。
 新政府軍の千代ヶ岡陣屋に攻撃について、菊地明氏は次のよう
に書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍の千代ヶ岡陣屋への攻撃は十六日午前三時より開始さ
 れ、わずか一時間で陣屋は陥落し、『函館戦記』には「この日
 暁、敵大挙千代ヶ岡に殺人す。我が伝習士官隊・渋沢隊・陸軍
 隊等、血戦ついに放らる」とある。中島も中島に従っていた二
 人の実子も戦死し、諸隊士二十数人も最期をともにした。「渋
 沢隊」の在陣が記されていたように、そのなかには小彰義隊の
 飯塚吉太郎・萩原次三郎・長谷川鉢三郎の姿もあった。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、榎本軍の拠点は五稜郭だけになったのです。し
かし、榎本は降伏しようとしなかったのです。榎本を何とか救お
うとした黒田清隆はここでひとつ手を打ったのです。五稜郭に使
者を遣わし、「弾薬や兵糧に不足しているならお届けする」とい
うことを伝えたのです。兵糧ならまだわかりますが、弾薬まで送
るというのは、まさに「敵に塩を送る」行為そのものです。
 どうしても五稜郭を死守するというのなら、正々堂々と戦おう
という意思表示なのです。そのため、食べるものはしっかりと食
べて、十分な弾薬を使って雌雄を決しようではないかという黒田
の好意だったのです。しかし、そのとき五稜郭に籠城する兵士は
約700人、もはや降伏するしかなかったのです。
 慶応2年5月17日、榎本武揚、松平太郎らの榎本政権軍幹部
は、亀田の斥候所に出頭し、陸軍参謀の黒田清隆、海軍参謀の増
田虎之助らと会見したのです。そして、幹部の服罪と引き換えに
兵士たちの寛典を嘆願したのです。
 しかし、黒田清隆はこれを認めなかったのです。なぜかという
と、幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の
助命が困難になるからです。しかし、これ以上の戦闘継続は困難
であった榎本自身が折れ、無条件降伏に同意したのです。そして
榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して五稜郭へ戻り、夜には
降伏の実行箇条を作成しています。
 慶応2年5月18日の早朝、榎本は全兵士を整列させ、挨拶を
していまいす。ここまで本当にがんばってもらったが、その勤労
に酬いることができなかったことをお詫びするといい、いつの日
か、「青天白日になる日が来る」と訓示したのです。そういうと
榎本は、亀田の屯所に降伏のために改めて出頭し、収監されたの
です。       ─── [明治維新について考える/80]


≪画像および関連情報≫
 ●黒田清隆についての情報
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  鹿児島生まれ。政治家、元老。父は鹿児島藩士。薩長連合の
  成立に寄与。戊辰戦争では五稜郭の戦いを指揮。敵将榎本武
  揚の助命に奔走。維新後は開拓次官、のちに同長官として北
  海道経営にあたり、札幌農学校の設立、屯田兵制度の導入な
  どを行う。明治9年(1876)特命全権大使として日朝修好
  条規を締結。明治14年の政変により開拓長官を辞任。第1
  次伊藤内閣の農商務相をつとめたのち首相となり、大日本帝
  国憲法の発布式典にかかわった。その後枢密顧問官、枢密院
  議長等を歴任した。        ──近代日本人の肖像
        http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/71.html
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黒田清隆.jpg
黒田 清隆
posted by 平野 浩 at 07:24| Comment(1) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
http://www.paripori.net/

ナイショ☆でそんなことしてたなんて!?
Posted by 嫌いぢゃないょ at 2012年04月14日 07:21
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