2011年06月03日

●「新政府軍総攻撃と土方歳三の死」(EJ第3069号)

 矢不来の戦いは榎本軍の惨敗だったのです。隊長が2人とも戦
死し、上等士官6人も負傷、死傷者は70人を超えたのです。そ
のとき七重浜にも敵兵があらわれたとの情報が五稜郭にもたらさ
れます。榎本武楊は二股口を死守していた土方歳三に五稜郭に戻
るよう指示を出したのです。
 七重浜といえば、五稜郭の目と鼻の先であり、榎本軍はいよい
よ追い詰められたことを意味します。そこで榎本は自ら800人
の兵を率いて七重浜に出陣したのです。慶応2年(1869年)
5月8日のことです。そのときの榎本隊の先鋒は、後から箱館に
やってきた仙台の見国隊なのです。
 作戦としては、先鋒を見国隊、側面を伝習隊と衝鋒隊が担当し
て三方から攻め込むというものであったのです。しかし、見国隊
は勇敢に戦ったものの、すさまじい銃撃によって多くの死傷者が
出たのです。とくに士卒がほとんどやられ、敵の呼び掛けに応じ
て投降する者も多数出たのです。この七重浜の敗戦によって榎本
軍は、完全に五稜郭に追い詰められたのです。
 新政府軍は5月11日に五稜郭と箱館市中の総攻撃を決意した
のです。この情報が榎本軍にも入り、榎本軍の幹部は別れの会を
開いています。このときの模様を松前奉行だった人見勝太郎は次
のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 明日は官軍が総攻撃をするということで、別れを告げんために
 箱館の「武蔵野」という妓楼がござりましたが、それに榎本武
 楊、松平太郎、大島圭介を始め将校皆集まって、別れの盃を致
 しました。         ──「史談会速記録」126編
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍は、午前3時に5隻の軍艦を使って箱館湾に進入し、
陸兵を輸送し、上陸させる作戦です。甲鉄と春日、陽春の3艦は
弁天台場に、朝陽、丁卯は蟠龍に向かってきたのです。ここまで
負け続けであった榎本軍にひとつだけ胸のすく快挙があったので
す。それは蟠龍の健闘です。その模様を星亮一氏の本からご紹介
します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「蝦夷島の興亡、この一戦にあり」──蟠龍艦長松岡盤吉は、
 捨て身の覚悟で舵を握った。操艦にかけては自信があった。松
 岡は右に左に転舵し、敵の追跡をかわした。すべての水兵は、
 神経を研ぎ澄まして、命令を聞き、おのれの持ち場を守った。
 (中略)海戦はいかに太陽を背負うかにあった。相手は眼が眩
 んで見えなくなる。逆にこちらからは手に取るように見える。
 その瞬間に大砲を放つのだ。キラキラと陽光を浴びて朝陽が近
 づいた。松岡の狙いははじめから朝陽だった。「永倉、弾丸を
 込めろッ」と大声をあげた。永倉伊佐吉は蟠龍丸の二等士官、
 三十二ポンドナポレオン砲の砲手である。永倉は照準を合わせ
 た。目の前に朝陽があった。松岡は充分に狙って発射した。一
 瞬の問があった。「ド、ド、ドーン」、百雷がいっペんに落ち
 たような轟音か、湾内にこだました。     ──星亮一著
   『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 蟠龍は朝陽を仕留めたのです。朝陽はまるでもがくように沈ん
でいったのです。新政府軍、榎本軍の多くがこの海戦を見守って
いたのですが、朝陽が沈むと榎本軍の将兵は歓喜の叫び声を上げ
たのです。それはこれまでまけ続けてきたせめてもの、うっぷん
晴らしになったと思われます。
 しかし、蟠龍めがけて甲鉄、春日、陽春が襲いかかってきたの
です。とくに甲鉄からの攻撃はすさまじく、蟠龍は70発の砲弾
を受けて船体がばらばらになり、浅瀬に乗り上げて焼失したので
す。歓声を上げるのは、今度は新政府軍の方だったのです。
 そのとき土方歳三も五稜郭で蟠龍の快挙を見ていたのです。土
方は足を痛めて治療していたのです。そこに弁天台場が危ないと
いう情報が入ったのです。そこを守っていたのは新選組隊士島田
魁であり、土方歳三はすぐさま馬に乗り、僅かな兵を率いて出陣
したのです。そのときの模様について、ウィキペディアは次のよ
うに書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍艦朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「こ
 の機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役
 大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我こ
 の柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門
 を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を
 執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急
 いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 この土方歳三の死は、榎本政権の最後を象徴する出来事であっ
たといえます。この土方の死については別説があるのです。既に
五稜郭では降伏の話は出ていたし、榎本も降伏の時期を探ってい
たといいます。なぜなら、惨敗は必至であるからです。
 しかし、土方は榎本に対し、「降伏は絶対にしない」と明言し
ていたのです。そのため、降伏の妨げになるとして味方に暗殺さ
れたのではないかといわれているのです。土方と榎本の間には少
しずつ亀裂が生じていたのです。辞世の句は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん
―――――――――――――――――――――――――――――
 土方歳三の死を契機に、5月13日から薩摩藩から和議の動き
が頻繁に行われるようになったのです。箱館戦争はいよいよ最終
章終局を迎えることになるのです。
          ─── [明治維新について考える/79]


≪画像および関連情報≫
 ●土方歳三の最後の地
  ―――――――――――――――――――――――――――
  新選組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏
  見の戦い後新選組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕
  府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走兵と合流した。明治元
  年10月蝦夷地に上陸した榎本軍は箱館を占拠して新政権を
  樹立したが、明治2年4月新政府軍の総攻撃で榎本軍は敗退
  したが、土方が守ったニ股口だけは最後まで落ちなかった。
  5月11日に箱館も新政府軍に落ちたため、箱館奪回を目指
  し50名の兵を率いて一本木の関門を出て箱館市中に向った
  が、銃弾に当たりこの地で倒れてと言われている。住所/北
  海道函館市若松町
  ―――――――――――――――――――――――――――

土方歳三の最後の地.jpg
土方歳三の最後の地
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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