2011年06月02日

●「箱館湾内における矢不来の海戦」(EJ第3068号)

 箱館戦争の緒戦において榎本軍は勝利したものの、新政府軍は
圧倒的な人数であり、守備するだけで手一杯になって、ほとんど
反撃する余裕などなかったのです。
 慶応2年(1869年)4月17日、新政府軍は松前に対して
総攻撃をかけたのです。午前中から甲鉄をはじめとする新政府艦
隊が松前沖に姿をあらわし、江差からは大軍が松前に向けて南下
してきており、それを春日が護衛していたのです。
 榎本軍は、松前城下の西方にある折戸台場から新政府艦隊に砲
撃を加えたのですが、艦隊は台場からの射程圏外に出て相手にな
らなかったのです。艦隊は榎本軍が十分な弾薬を持っていないこ
とがわかっているので、無駄な弾薬を使わせることと、松前に向
かう新政府軍の進撃を待っていたのです。
 午後4時になって、新政府艦隊は一斉に艦砲射撃を行ったのて
す。榎本軍も折戸台場から応戦したものの、艦砲射撃に守られた
新政府軍の攻撃にとうてい勝ち目がなかったのです。
 午後4時40分頃、前線を突破された時点で指揮を執っていた
松岡四郎次郎は、日章旗を下ろし、大砲を爆破して兵を引いたの
です。味方の消耗は激しく、これまでと判断したからです。新政
府軍が松前を占拠したのは、午後6時過ぎのことです。
 松前を退いた榎本軍は、福島、知内、木古内、泉沢──ここは
何とか榎本軍が押えていたのですが、もし、新政府艦隊があらわ
れて艦砲射撃が行われると、榎本軍は一段と箱館に追い詰められ
ることになります。
 4月20日になると、新政府軍は第2次上陸兵を含む勢力を木
古内に投入してきたのです。榎本軍の木古内陣地には激しい銃撃
が浴びせられ、額兵隊と遊撃隊が応戦したものの、そのままずる
ずると泉沢まで退却し、木古内が占領されるところまで追い込ま
れたのです。
 しかし、木古内の戦闘には、会津遊撃隊と神木隊が応援に駆け
付け、それに加えて海上から蟠龍が艦砲射撃を加えて支援したの
で、新政府全軍が笹子屋というところまで引き上げたのです。こ
のように、当時は軍艦による艦砲射撃が攻撃にはきわめて有効で
あったことをあらわしています。
 新政府軍を押し返した榎本軍は、追撃をかけようとしたのです
が、五稜郭から応援に駆け付けた大鳥圭介は、次のようにいって
全軍が、21日午前8時までに茂辺地に引き、兵を少し休ませる
ことにしたのです。
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 木古内もとより地利悪しく、今これを保つも我れにおいて益
 なし。                ──『感旧私史』
   菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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 木古内を退却したので、榎本軍に残された戦略拠点は、矢不来
(やふらい)しかなくなったのです。添付ファイルを見ていただ
くとわかりますが、ここを押さえておかないと、二股口を守り、
一兵も新政府軍を入れさせていない土方歳三の部隊を見殺しにす
ることになります。
 矢不来は、箱館湾の一角にあり、正面には箱館山が見えます。
現在は北斗市、かつて旧福山街道の関所のあったところであり、
箱館湾を一望できる戦略拠点です。実は矢不来は、大鳥圭介が最
後の防御地として指定した場所でもあるのです。矢不来の守りに
ついて、菊地明氏の記述です。
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 当初より、大鳥は松前を突破された場合の迎撃地として矢不来
 を想定しており、「天神の森」こと矢不来天満宮に会津遊撃隊
 と、鷲ノ木方面より派遣されてきた衝鋒隊半隊を配すると、す
 でにその北方の山の頂上部と中腹に設けられていた二十六の胸
 壁に大小六門の大砲を備え、伝習歩兵隊・神木隊・砲兵隊・工
 兵隊に守らせると、自身も中腹の胸壁に入った。そして、矢不
 来入口の砲台と海岸沿いの間道を額兵隊の、矢不来正面の胸壁
 を彰義隊の部署とする。           ──菊地明著
        『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応2年(1869年)4月24日、午前5時20分、新政府
艦隊は箱館湾に姿をあらわし、途中茂辺地と矢不来に艦砲射撃を
行い、午前8時10分に港内に入り、榎本軍の回天、蟠龍、千代
田形との間で砲撃戦が始まったのです。
 このときは榎本軍の弁天台場からの砲撃も加わり、正午前には
新政府艦隊は港内からは撤退したのです。しかし、午後になって
再び海戦は再開されたのですが、榎本軍は約2時間後に新政府艦
隊を追い払ったのです。しかし、新政府艦隊の被害は少なく、ほ
とんど無傷で矢不来攻撃に投入されることになったのです。
 榎本軍は矢不来に三重の台場を築いていたのです。海浜、中段
上段の3つです。大鳥圭介はここに兵460人を配置して、敵艦
隊と向き合ったのです。
 新政府軍艦隊は、4月29日午前2時30分、矢不来沖に5隻
の軍艦──朝陽、陽春、甲鉄、春日、丁卯を配置したのです。そ
して、朝陽、陽春は茂辺地に、甲鉄、春日、丁卯は矢不来に艦砲
射撃を行ったのです。
 新政府艦隊は、この攻撃は大型弾を使い、その轟音は耳をつん
ざくばかりであったといいます。『南河紀行』は次のように状況
を伝えています。
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 軍艦より飛来る大弾(砲弾)雨のごとくにて、或は谷に落ち、
 或は樹を倒し、又胸壁を崩し、土を四方に飛散し、勢甚だ猛烈
 なり。   ──『南河紀行』/星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
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          ─── [明治維新について考える/78]


≪画像および関連情報≫
 ●矢不来台場について
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  矢不来台場(第1台場、第2台場)はすでに町文化財指定され
  ているが、今まで考えられていた以上に縄張りは広大であり
  旧福山街道を中に取り込み、関所の役割を果たしていたらし
  い。重要な施設の付近を通るところでは街道を深く掘込み両
  側が見えないようにしていたと思われる場所もある。第3の
  台場?かつて矢不来天満宮のご神木の松ノ木──JR江差線
  工事で伐採された──があった辺り、国道228号線沿いの
  パーキング向いの張り出し部分が「新政府軍の攻撃を受けて
  土塁もひっくり返る程の被害を受けた」と記録に残る箱館戦
  争激戦地の矢不来台場ではないか。
  http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/yafurai-daiba.html
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箱館戦争地図.jpg
箱館戦争地図
posted by 平野 浩 at 04:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
徳山郷土史研究会からの依頼で連絡させていただきます。
1 徳山郷土史研究会では、箱館戦争に徳山藩から出兵した人物に焦点をあて、近日中に本を出版する予定ですが、この中で函館戦争図の写真を出典元を入れて掲載させていただきたい。、
2 箱館戦争図中、旧幕府軍上陸明治元年10月21日とありますが、公的記録には10月20日とありますが、如何でしょうか?

以上、2点についてよろしくお願いいたします。
Posted by 廣 文仁 at 2019年03月08日 14:57
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