2011年06月01日

●「新政府軍による3ルート攻略作戦」(EJ第3067号)

 明治2年(1869年)4月9日、新政府軍は江差の北約10
キロのところにある魚港、乙部に上陸したのです。そのとき江差
には500人を超える榎本軍がいたので、江差奉行の松岡四郎次
郎は3小隊を率いて乙部に向かったのです。
 しかし、新政府軍の軍艦、とりわけ甲鉄の艦砲射撃はすさまじ
く歯がたたなかったのです。もし、榎本軍に開陽が健在であれば
輸送船はことごとく粉砕できたし、軍艦同志でも甲鉄を除けば、
あとは開陽の敵ではなかったのです。
 新政府軍は、榎本の率いる艦隊には相当警戒していたのです。
しかし、榎本軍の軍艦は3隻しかなく、榎本艦隊は箱館を動けな
いと判断して、あえて乙部に上陸したのです。上陸作戦の部隊は
三軍まであって次の通りです。総兵力は1400人です。
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 第一軍 参謀/ 山田顕義(長州) 松前、津軽、長州、大野
     大野藩兵
 第二軍 参謀/ 黒田清隆(薩摩) 松前、津軽、薩摩、備前
     長州、水戸、福山藩兵
 第三軍 総督/清水谷公考(箱館府知事、公家) 松前、水戸
     筑後、薩摩、備前、徳山、福山藩兵
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
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 これを見ると、どの軍も土地に精通した松前軍が中心になって
いることがわかります。まして彼らは昨年末に榎本軍に攻め込ま
れ、青森まで撤退した悔しさがある。その分、怒涛のように攻め
込んだのです。兵の数も装備も弾薬も士気にも勝る新政府軍に榎
本軍は勝てるはずがないのです。そのため、江差を明け渡し、兵
を松前城まで引いたのです。
 新政府軍は、乙部に上陸してから箱館にいたる作戦として、次
の3つを決めていたのです。
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          1. 松前口作戦
          2.木古内口作戦
          3. 二股口作戦
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 最初のうちこそ榎本軍は優勢だったのです。しかし、何といっ
ても多勢に無勢、陸上の銃撃戦では負けないが、それに海上から
の軍艦による艦砲射撃が加わると、勝負にならなかったのです。
 まず、松前口作戦における緒戦の模様について、菊地明氏の本
から紹介します。
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 松前では地蔵山に陸軍隊、折戸台場に遊撃隊を配し、新政府軍
 を迎撃するため一聯隊五小隊・遊撃隊二小隊・砲兵隊一分隊が
 根部田方面へと出陣した。その夜七時ごろ彼ら拝札前村(松前
 町)に進出していた新政府軍斥候隊と戸長川付近で衝突する。
 新政府軍には援兵があったものの、旧幕軍の優勢のうち、翌早
 暁には小砂子まで撃退し、旧幕軍は砲三門と小銃・弾薬を押収
 したうえ、江長町を回復した。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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 それでは木古内(きこない)口ではどうだったでしょうか。
 大島圭介は伝習一小隊と仙台藩額兵隊の三小隊を率いて、箱館
から木古内に出撃したのです。木古内は戦略上の重要拠点であり
ここを落とされると、松前や福島が孤立化してしまうのです。こ
こも緒戦の模様について菊地明氏の本から紹介します。
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 午前三時三十分、間道警備の彰義隊とのあいだで銃撃戦が始ま
 り、「未明、間道口彰義隊の番兵走り来たり、敵既に近くに攻
 め来たれり、早く兵を出して防ぐべし」との報知が本営にあり
 大鳥は額兵隊二小隊と、伝習歩兵隊一小隊を率いて出陣する。
 「彰義隊は山上に備えたる大砲をしきりに放ちて防戦す」──
 『蝦夷錦』という状況のなか、山上に構築していた胸壁から額
 兵隊が、平地に散開した伝習歩兵隊が銃撃したが、新政府軍は
 迂回して胸壁の額兵隊を攻撃した。待機していた彰義隊は別の
 山に登り、迂回兵を背後から挟撃して撃退したため新政府軍は
 敗走し、一時間余におよんだ戦いは終わった。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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 二股口は険しい山間を抜けて五稜郭にいたる重要路であり、土
方歳三は冬の間に、こつこつと防衛のための手を打っていたので
す。箱館戦争でおそらく榎本軍が最も新政府軍と対等に戦ったの
は二股口の攻防戦なのです。この戦闘について、星亮一氏は次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 江差から箱館に向かうもう一つのルートは二股口だった。土方
 は冬の問にもここに出かけ、胸壁作りに励んで来た。ここには
 土方歳三と大川正次郎が衝鋒二小隊、伝習二小隊を率いて出張
 した。四月十三日、ここに長州、福山、松山、薩摩の兵、数百
 人が押し寄せた。土方は胸壁から峠を登っている敵兵を乱射、
 十六時間に及ぶ戦闘を繰り広げ、敵を撃退した。敵の様子を一
 望できるところに胸壁を築いていた。兵士の中には一人で千発
 も射撃した者もおり、顔は硝煙で真っ黒だった。守備兵の一小
 隊は、昨年十二月末、箱館で募集した兵士で、はたして戦闘に
 耐えられるか疑問もあったが、訓練の結果、勇猛果敢な兵士と
 なっていた。着剣して胸壁を飛び出し、敵兵を二人も刺し殺し
 戦死した兵士もいた。 兵の強弱は、新しいか古いかではなく
 訓練にあると、大鳥は思った。  ──星亮一著の前掲書より
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          ─── [明治維新について考える/77]


≪画像および関連情報≫
 ●新政府軍から見た「二股口の戦い」
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  4月16日、新政府軍の第二陣2400名が江差に上陸する
  と、二股方面には薩摩・水戸藩兵などからなる援軍が派遣さ
  れ、弾薬と食糧も補給された。一方で、二股の堅塁を抜くこ
  とが容易ではないことを痛感した新政府軍は、4月17日以
  降、厚沢部から山を越えて内浦湾に至る道を山中に切り開き
  始める。ここから兵と銃砲弾薬を送り込んで、旧幕府軍の背
  後から二股口を攻める作戦であったが、この作業も困難を極
  めた。この間、旧幕府軍でも滝川充太郎率いる伝習士官隊2
  個小隊が増強されている。      ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図出典/二股口の戦いを描いた古地図/ウィキペディア

二股口の戦いを描いた地図.jpg
二股口の戦いを描いた地図
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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