に結集したのです。慶応2年3月27日のことですが、箱館府判
事・南貞助(長州)の名前で、箱館湾の外国海軍司令宛てに「開
戦予告」が届けられたのです。
どういう内容かというと、まもなく反逆者への総攻撃をかける
ので、自国の居留民を移動可能な財産と一緒に軍艦上に回収する
か、明治政府が蒸気輸送船を送るのでそれに乗って、青森への避
難を勧めるという内容です。
これを受けて、3月28日に英仏両艦の司令は居留民に対して
次の4つの指示を出しています。
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1.ミカド政府から、攻撃開始が通告されたこと
2.軍艦は箱館港から3マイルまで退去すること
3.居留民は直ちに動産ともども避難してほしい
4.警告を無視して残存する者は自己責任になる
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新政府軍は青森に軍を集結させ、渡海の準備を着々と整えてい
たのです。その兵力はどのくらいのものであったかについて、保
谷徹氏の著書には次のように書いてあります。その総勢は、およ
そ5490名であったのです。
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その総勢は、薩摩・長州・備後福山・越後大野・岡山・津・松
前・津軽・黒石・水戸・久留米の藩兵による総計5490余名
といわれ、このうち戦闘員は3388人、このほかは夫卒(軍
夫)であった。上陸地点は松前半島の付け根、江差の北方10
キロほどの乙部と決し、ここに物資・兵員の陸揚げを行うこと
になった。大量のはしけ船も準備され、兵員は飛竜に250、
豊安に300、チャーター船ヤンシーに1500まで輸送する
ことが可能だった。オオサカには小荷駄を積み込んで、軍艦が
護衛した。 ──保谷徹著/『戊辰戦争』/吉川弘文館刊
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上記のように、新政府軍は、英国艦「オーサカ」と米国艦「ヤ
ンシー」を津軽海峡渡航用にチャーターし、その2艦も青森港に
入港してきたのです。
それでは、この新政府軍を迎え撃つ榎本軍はその時点でどの程
度の兵力であったかについて、「北州新話」では、3000人を
切る次の兵力であったと伝えています。戦わずしてその勝敗は見
えていたといえます。
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五稜郭 ・・・・・ 伝習歩兵隊 杜稜隊 ・・ 500余人
箱館 ・・・・・・ 伝習士官隊 新選組 ・・ 300余人
松前 ・・・・・・ 遊撃隊 陸軍隊 ・・・・ 300余人
江差 ・・・・・・ 一聯隊 ・・・・・・・・ 350余人
室蘭 ・・・・・・ 開拓方 ・・・・・・・・ 250余人
鷲ノ木〜尾札部 ・ 衝鋒隊 ・・・・・・・・ 400余人
湯ノ川〜石崎 ・・ 小彰義隊 ・・・・・・・ 80余人
有川〜吉岡 ・・・ 彰義隊、額兵隊、神木隊
会津遊撃隊 ・・・・・・ 700余人
菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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ところで、新政府軍に降伏したはずの仙台藩では、依然として
抗戦派の抵抗がくすぶっていたのです。朝廷による仙台藩の処分
は、領地没収をされたものの、改めて朝廷より28万石が与えら
れ、藩の存続は認められたのです。
しかし、仙台藩は公称62万石ですが、実質100万石を超え
る裕福な藩だったのです。それが28万石に減らされたのですか
ら藩の財政は最悪です。それにここ数年間にわたる凶作が重なり
藩士たちは経済的に困窮していたのです。
仙台藩としては、領地半減の対応策としていわゆるリストラ、
陪臣などの人員削減を徹底して行わざるを得なかったのです。こ
の処分内容や藩の態度に不満を覚えた藩士は少なくなく、仙台藩
士・二関源治、旧幕臣・石川欽八郎などが中心になり、仙台藩の
二、三男および浪人者などに呼びかけ、結集して創設したのが見
国隊なのです。
彼らは石巻周辺を本拠地とし、近辺の富豪より軍用金を徴収す
るなどして、着々と活動準備を行ったのです。もちろん、仙台藩
がこれを放っておくはずがなく、鎮圧しようとするのですが、容
易ではなく、見国隊は追っ手を避けながら気仙沼へと移動したの
です。そこで4月6日に新政府は久我通久を鎮撫総督とし、見国
隊を鎮撫するため、兵600人を仙台藩に派遣したのです。
対応を迫られた見国隊は武装の必要性に迫られます。そのとき
気仙沼沖に碇泊していた加賀・前田家の船に武器商人の仏人が乗
り合わせていたのです。石川欽八郎が同船乗り込みの許可を得て
横浜に赴き、そこでその仏人の紹介で、英国商船に談判し、兵器
弾薬の買い付けに成功したのです。
そして、英国蒸気船「ユーレンブラック号」をチャーターし、
その船に兵器弾薬を積載して気仙沼に帰港したのです。そして仲
間350余名を船に乗せると、そのまま石巻港へ移動し、同港に
碇泊していた船5隻に米殼が満載されているのを知ると、これを
奪取して船に移し、箱館の榎本軍と合流するため石巻を出帆した
のです。明治2年4月8日のことです。
新政府艦隊はすべての準備を整えて、慶応2年4月8日に青森
港を出港したのです。9日午前2時20分、軍艦の甲鉄と春日は
江差北方8キロの乙部沖に出現し、午前4時には1500人の陸
兵を乗せた「ヤンシー」も到着したのです。上陸準備はすべて完
了したのです。そして、一挙に乙部上陸を果たし、そのまま上陸
軍は江差も占有したのです。榎本軍はまったく抵抗せず、全軍が
松前まで引いたのです。
─── [明治維新について考える/76]
≪画像および関連情報≫
●「見国隊」について
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見国隊は兵力を二つに分けて一方が室蘭方面の防衛に向かい
もう一方は森大野の守備についた。見国隊隊長の二関源治は
額兵隊の星恂太郎と面会する為に有川に向かう。しかし、有
川には星恂太郎は居らず、木古内にいるといわれたので有川
の額兵隊士・荒井宣行に案内をしてもらって五稜郭の榎本武
揚総裁を訪ねる。榎本は二関達見国隊に有川の防衛を命じた
為、森大野に駐屯していた見国隊を有川に移動させ、二関自
身は単身で木古内の星恂太郎に会いに行った。星と面会した
二関は今までの仙台藩事情を説明し、木古内で一泊したが翌
朝には戦闘状態に入った。星恂太郎は二関に「君はここで戦
うべきではない。見国隊を連れて函館の防備に廻るべきだ」
と説得され函館へ戻って臨戦態勢をとった。
http://konn3563.seesaa.net/article/113871767.html
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乙部町


