2011年05月30日

●「宮古湾海戦で榎本艦隊敗北」(EJ第3065号)

 榎本軍の「甲鉄」分捕り作戦──アボルタージュ。そんなこと
が本当に成功する可能性はあるのでしょうか。
 出動するのは、回天と蟠龍と高尾の3艦です。宮古鍬ヶ崎湾に
停泊中の甲鉄に蟠龍と高尾が接近し、甲鉄の両舷に平行して挟み
込むように接舷します。それと同時に蟠龍と高尾の両艦から陸兵
が甲鉄の甲板に飛び降り、甲板を制圧し、乗員を閉じ込めたまま
甲鉄を箱館まで曳航してしまおうという計画です。
 それでは回天は何をするのでしょうか。回天は両舷の水車を推
進力とする外輪船であり、甲鉄に接舷するのに向いていないので
す。そのため、敵の他艦を牽制し、作戦遂行艦の支援と戦況を監
視する検分艦としての役割を果たすことにしたのです。
 回天と蟠龍と高尾の3艦には、それぞれ次のように士官と兵士
が乗り込んでいます。
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 ◎「回天」/1678トン
  ・艦将/甲賀源吾、海軍奉行/荒井郁之助、陸軍奉行並
   /土方歳三、海軍出身/ニコール、神木隊39人、彰
   義隊15人、新選組数名、その他
 ◎「蟠龍」/370トン
  ・クラトー、彰義隊士15人、遊撃隊5人、その他
 ◎「高尾」/1000トン
  ・コラッシュ、神木隊/26人、その他
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応2年3月22日の夜明け前、回天と蟠龍と高尾の3艦は箱
館港を出航したのです。鮫港(青森県鮫町)に寄港してさらに南
下しようとしたのですが、またしても嵐に遭遇したのです。ここ
で3艦は早くもばらばらになってしまいます。
 蟠龍はわずか370トンと小さいので、嵐を乗り切るのは不可
能と判断して、鮫港に逃げ込んでいます。これで事実上3艦が合
同作戦を組むことは不可能になったのです。しかし、高尾はちょ
うど風の力で宮古沖まで流され、回天は何とか嵐を乗り切ったの
で、24日の明け方には宮古南方大沢港(岩手県山田町)に両艦
とも入港できたのです。
 ところが、高尾は機関に故障が生じたのです。緊急修理を行っ
たのですが、完全には直らなかったのです。しかし、甲鉄攻撃は
25日の午前4時30分前に行う必要があったのです。
 なぜ、午前4時30分前に攻撃を行わなければならないかとい
うと、新政府軍の「総員起こし」──乗務員全員の起床時間──
が午前4時30分であるからです。その30分前には甲鉄の甲板
に兵士を下ろす必要があったのです。
 目標とすべき宮古湾鍬ヶ崎港は、大沢湾より約28キロの距離
です。しかし、回天と高尾は速度が違うのです。まして高尾は機
関を損傷しており、時速はせいぜい3ノット、1時間に5・6キ
ロぐらいしか進めないのです。
 これに対して回天の最高速度は時速12ノットです。キロメー
トルに直すと22・2キロです。平均時速10ノットで進むと、
1時間30分で宮古湾鍬ヶ崎港に着きます。しかしこれでは、高
尾は回天についていけないのです。
 時間は迫っており、事実上回天の単独攻撃になってしまったの
ですが、それでいながら回天が宮古湾鍬ヶ崎港に到着したのは午
前4時30分を過ぎていたのです。既に新政府軍各艦の甲板には
乗員の姿が見えていたのです。すべての計画が狂っています。
 そのとき宮古湾鍬ヶ崎港には、甲鉄の他に新政府軍の艦隊であ
る春日、戊辰、飛龍、豊安、陽春、丁卯、晨風が停泊していたの
です。そのなかの春日には薩摩藩士の東郷平八郎が乗っていたの
です。東郷は当時春日の乗員だったのです。
 回天は米国の軍艦旗である星条旗をつけて宮古湾に入ったので
す。米国の軍艦だと信じている新政府軍の各艦の乗員はどこに錨
を下ろすのか、それをのんびり見物していたといいます。
 しかし、回天は甲鉄を見つけると、直ちに星条旗を下ろし、日
章旗を掲げて甲鉄に突き進んだのです。そのときの模様を菊地明
氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 艦将・甲賀源吾が「アポルダージユ」と叫び、高低差に躊躇し
 ていた陸兵が「甲鉄」の甲板に飛び移る。第一番が海軍一等測
 量の大塚浪次郎、次いで軍監役の矢作沖麿、さらに彰義隊の笹
 間金八郎・加藤作太郎・伊藤弥七、新選組出身で陸軍奉行添役
 介の野村利三郎、軍艦役並の渡辺大造もこれに続いた。これが
 『蝦地追討記』に、「賊(旧幕軍)六、七人、抜刀あるいは銃
 を携え、甲鉄艦へ乗り入り候……」と記録される人々である。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 回天と甲鉄の甲板の高低差は約3メートルもあり、兵士が飛び
降りるのを躊躇したといいます。それに甲鉄の甲板には既に乗員
が出てきており、下から銃撃してきたのです。
 激しい戦闘が約20分間続いたのですが、回天の被害は大きく
引き揚げざるを得なかったのです。榎本軍はこの戦闘の結果、回
天艦将の甲賀源吾を含む13人が戦死し、約30人が負傷してい
ます。新政府軍の戦死者は9人、負傷者は約25人です。
 回天は26日午前10時に箱館に帰還することができましたが
後からついてきた高尾は速度が遅いため、追いつかれて追撃され
箱館へ北上中、宮古の北20キロの羅賀沖で座礁。乗員は艦に火
を放ってボートで脱出したのですが、箱館には戻れず、全員が盛
岡藩に投降しています。
 このようにして、宮古湾海戦は回天こそ孤軍奮戦したものの、
榎本軍の完敗に終わったのです。一方、蟠龍は一時甲鉄に追われ
たものの、辛うじて風に乗って何とか箱館に帰還したのです。こ
のように2艦は何とか守ったものの、榎本軍は新政府軍との最初
の海戦に敗れたのです。── [明治維新について考える/75]


≪画像および関連情報≫
 ●「宮古湾海戦」について
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  奇襲には成功したが、外輪船で小回りが利かなかった回天は
  接舷向きではなく、艦長の甲賀源吾の必死の操艦にもかかわ
  らず、回天の船首が甲鉄の船腹に突っ込んで乗り上げる形と
  なり、約3メートルもの高低差が生じてしまった。それでも
  回天からは先発隊が甲鉄の甲板に飛び降り、斬り込んでいっ
  たが、細い船首からでは乗り移る人数が限られ、またガトリ
  ング砲など強力な武器の恰好の標的となってしまう位置だっ
  たため、乗り移る前に回天甲板上で倒れる兵が続出し、ニコ
  ール、相馬主計なども負傷した。春日をはじめ周囲にいた新
  政府軍艦船も次第に戦闘準備が整い、回天は敵艦に包囲され
  て集中砲撃を浴びるに至る。     ──ウィキペディア
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宮古湾海戦.jpg
宮古湾海戦
posted by 平野 浩 at 04:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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