交渉には気を配っていたのです。その証拠に、彼らは鷲の木に到
着するや開陽丸の艦上から各国代表にあてて声明書を送っている
のです。対外国工作をそれだけ重視していたからです。時期的に
は明治元年10月19日のことです。
なぜ、徳川家臣団がこれほど国際関係に明るかったかというと
それは開陽丸に同乗していたフランス人士官ブリュネの存在が大
きいといえます。その声明書がフランス語で書かれていたことが
それを物語っています。
この声明を受けて外国代表は、急遽集まってその対応を協議し
たのです。榎本らの徳川家臣団に「交戦団体権」を与えるかどう
かの問題です。
それでは「交戦団体権」とは何でしょうか。ウィキペディアの
解説を引用します。
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交戦権という言葉には、厳密な定義は存在しない。日本国憲法
をはじめとして用例はあり、「戦争を行う権利」あるいは「交
戦国・交戦団体に対して認められる権利」という意味ではない
かと推測されている。交戦権を「戦争の主体となる立場」と規
定する場合、交戦権を持つのは、国および交戦団体となる。戦
争は、一般に国と国との間で行われるものであるため、戦争の
主体となりうる集団として、まず国を挙げることができる。ほ
かに、政府の転覆を目指す集団が転覆対象国家に対して戦争を
起こす場合、あるいは国の一部の分離独立を目指す集団が旧帰
属国家に対して戦争を起こし、その集団が「交戦団体」と認め
られた場合には、国に準じて交戦権を付与されるとされる。
──ウィキペディア
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既存国家で、ある団体がクーデターを起こし、国家の転覆を図
り、それが成功したとします。そういう場合に、その団体に「交
戦団体権」を与えるかどうかが国際間で問題になります。国際的
にその団体を国と認めるかどうかの問題です。
考えてみると、新政府と旧幕府が対立し、内戦が起きている幕
末維新の状況は、外国から見ると、どちらも国として認められな
い状況といってよいと思います。
しかし、榎本軍が蝦夷地に上陸したときには戊辰戦争の決着は
ほとんどついていたのです。それでも外国の代表が榎本らの蝦夷
地征服を問題にしたのかというと、差し迫って箱館港の封鎖の懸
念があったからです。その顛末について石井孝氏は次のように述
べています。
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外国代表の問では、徳川家臣に付与すべき権利について意見が
分裂した。イギリス公使パークスが提出した決議案のなかには
外国の船舶にたいして「箱館港を封鎖しょうとする徳川脱藩家
臣のがわからのいかなる要求をも承認することができない」と
いう形で、徳川家臣団の交戦団体権を否認するような文句が含
まれていた。これにたいしてプロシャ代理公使フォン=プラン
トが提出した改訂決議案では、問題のこの部分が、外国の船舶
にたいする「箱館港の封鎖を承認することができない」と変え
られた。これによると箱館港の封鎖は、徳川家臣団にたいする
と同じように、天皇政府にたいしても否認されるわけである。
──石井孝著
『戊辰戦争論』/吉川弘文館
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英国公使パークスの慎重な要求の表現と比較すると、プロシャ
代理公使フォン・ブラントはかなり乱暴なことをいっていること
がわかります。パークスの場合は、新政府には交戦団体権を認め
るかわりに、蝦夷の徳川家臣団のそれには制限を設けようとする
ものであるのに対して、フォン・ブラントのそれは新政府の交戦
団体権も認めないといっているのです。いかに日本を低く見てい
たかがわかります。
各国代表として、フランス公使ウトレイとオランダ公使ファン
・ポルスブルックは英国のパークスに賛成したのですが、米国公
使ヴァン・ヴォールクンバーグとイタリア公使のデ・ラ・トゥー
ルはフォン・ブラントに同調したのです。「3対3」に分かれた
ので、箱館港封鎖問題については結論が出なかったのです。その
結果、英国と仏国は2国についての取り決めを行ったことは、昨
日のEJに書いた通りです。
このフォン・ブラントとは何者でしょうか。
フォン・ブラントは、当時プロシャ代理公使(のち北ドイツ連
邦代理公使)でしたが、日本の戊辰戦争の混乱に乗じて蝦夷地を
本格的な植民地にする計画書を本国に提案していたのです。
フォン・ブラントは、1867年の夏、蝦夷地を旅行して次の
ように感想を書いています。
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この土地はヨーロッパ人の植民地として格別に適していると確
信することができた。気候は少なくとも島の南部において北欧
のそれと合致し、地味は肥え、潅漑の便が非常に良く、石炭の
埋蔵量も多い。・・・主著のアイヌと本土からの移民は数が少
ないので、ヨーロッパ人の入植に障害となりうるものではない
し、また、島に置くべき守備隊や駐留地のことは問題とするに
足りなかった(原潔・永岡敦訳)。
──保谷徹著/『戊辰戦争』/吉川弘文館刊
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きっかけは、会津・庄内両藩が武器供与の見返りに蝦夷地の土
地を提供するという提案をしてきたことによるのです。しかし、
フォン・ブラントの提案は、ときの宰相ビスマルクが却下したた
め、実現しなかったのですが、プロシャとは他に似たような問題
もあるのです。 ── [明治維新について考える/72]
≪画像および関連情報≫
●フォン・ブラント/日晋修好通商条約締結の顛末
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ブラントは移民計画と蝦夷地防衛計画まで書いている。移民
の出発地はトリエステが良い、そこから船でアレキサンドリ
アまで3日か5日かかる。スエズ運河が開通すれば時間は、
もっと短縮する。スエズから箱舘まで平均50日。アメリカ
やオーストラリアよりも近く、安価である。蝦夷地の防衛は
5000名の兵力。14ないし17門の大砲。軍艦4〜6隻
砲艦8隻その他輸送艦があれば十分だ。幕府は果敢な抵抗を
してくるだろうが、問題ではない。それよりも他のヨーロッ
パ諸国のどこよりも先に速やかに占領する方が重要だ。(一
部略)ブラントの1866年のビスマルク宛書簡によれば、
会津藩・庄内藩の武器売買の決済にその所有地を宛てると言
う交渉を内々に進めていたと言うが、これ裏付ける日本側の
史料はない。
http://blogs.yahoo.co.jp/ikimono01/12944228.html
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保谷 徹氏の本「戊辰戦争」


