2011年05月23日

●「戦わずして沈没した開陽丸と神速丸」(EJ第3060号)

 慶応元年11月15日に松岡四郎次郎の率いる一聯隊が松前藩
主の松前徳広が避難していた館城を攻撃したのです。既に藩主の
松前徳広は江差を経て青森に逃れており、館城には100人程度
の守備兵だけだったので、簡単に城は落ちたのです。
 これで蝦夷地は平定されたのです。しかし、ここで榎本武楊は
大きな失敗をしているのです。榎本は自分としての近代戦の戦い
方のかたちにこだわるところがあったのです。戦略に基づいて陸
軍が敵の陣地や城を攻略し、海軍は海から艦砲射撃してこれを支
援する──このスタイルにこだわるのです。
 だから、松前城攻撃のさいも回天丸と蟠龍丸を松前湾に進入さ
せたのです。ところが、松前兵は弱く、海軍まで出陣させる必要
などなかったのです。しかし、海軍兵士としては陸軍ばかりが手
柄を立てるのは怪しからんと考えるので、榎本としては海軍も出
動させ、大砲を2〜3発撃たせれば、そういう海軍兵士の不満は
解消できると考えて、江差攻略のときも開陽丸を江差に回してい
るのです。これが結果として大失敗だったわけです。
 榎本は自ら開陽丸に乗って江差に向かったのです。昔から蝦夷
地の西海岸は冬の期間は西北の風が強く、錨を下ろせる港が乏し
いのです。小さい船は弁天島の背後に停泊して風波を凌ぐことが
できますが、開陽丸のような大船にとっては狭く、浅いため座礁
する危険性が高いのです。
 開陽丸が江差に着いたのは、11月15日の早朝のことです。
江差沖に錨を下ろして陸の様子を窺うと、どうやら敵兵はすべて
逃げて誰もいないようなので、榎本は端艇を下ろし、兵隊ととも
に上陸しています。敵は逃げた後だったので、自分は能登屋とい
う旅籠に入り、開陽丸は鴎島の島影に停泊させたまま、その旅籠
で土方が来るのを待つことにしたのです。今にして思えば、これ
が最大の榎本の判断ミスだったのです。
 星亮一氏はそのとき江差沖で起こったことについて、次のよう
に紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 夜6時ごろから突然暴風となり、蒸気を焚いたが、まったく効
 力なく浅瀬に乗り上げてしまった。北の海の恐ろしさである。
 開陽丸を救うため諸士官は、万死を顧みず百万力を尽くしたが
 3日を経てついに全体が破壊し、大砲、弾薬、ガトリング機関
 砲など武器は残らず海底に沈没し、士官水兵は小艇でやっと江
 差に上陸した。このことが箱館へ伝えられると将兵は愕然とし
 ただちに回天、神速を出して救助せんとしたが、神速も大風の
 ために海岸に吹き寄せられ、二重遭難にしてしまった。
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 回天丸は風浪が強いので、箱館に帰還して無事だったのですが
榎本軍は、主力艦の開陽丸と神速の貴重な2艦を失ったのです。
なかでも開陽丸は2817トンもある大艦であり、1艦で津軽海
峡の制海権を握れるといわれる最新鋭艦なのです。それを戦わず
にして失ったのですから、榎本海軍に壊滅的な打撃を与えたので
す。『義団録』はこれについて次のように表現しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今これを沈没せしむる、あたかも手足、双眸を失うがごとし
                     ──『義団録』
   菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 開陽丸はなぜ沈没したのでしょうか。
 江差には開陽丸の遭難について、不思議な伝説が伝わっている
のです。開陽丸が風に流されたとき、前方に狐火のようなものが
見えたのです。目をこらして見ると、一人の漁師が小舟に立って
手招きしているのです。
 当時の水先案内人はこのようなかたちで大船を誘導していたの
で怪しまず、きっと安全な場所に誘導してくれるのだと思い込み
その方向に開陽丸を進めると、物凄い音がして暗礁に乗り上げた
というのです。これは江差の奥山にある霊場である笹山稲荷神社
の笹山狐が水先案内人に扮して開陽丸を座礁させたといわれてい
るのです。
 「開陽丸が危ない」という報が入って、榎本は飛び起きて、浜
に駈け寄ると、北国の厳しい高波が傾いた開陽丸を襲っているの
を見て、呆然として立ちすくんでしまったのです。
 このとき、榎本が待っていた土方歳三はどうしていたのでしょ
うか。これについて「幕末維新と江差」というサイトでは次のよ
うに書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 その頃、松前から浜伝いに藩兵を追ってきた土方歳三の軍が、
 予想を超える抵抗に合い、苦戦を続けていました。土方が抵抗
 線を突破して江差に入ったのは翌16日のことでした。血なま
 ぐさい戦闘服姿のままで能登屋に駆け込んだ土方が見たものは
 海に目を凝らして動かない榎本の姿でした。(一部略)能登屋
 を出た二人は、本陣とした順正寺に向かいました。途中、この
 時は無人となっていた檜山奉行所があり、門前まで来た二人は
 そこでまだ3分の1を海面に晒した開陽丸を眺めました。よほ
 ど悔しかったのでしょう。土方は目の前にあった松の幹を何度
 も拳で叩きながら、涙をこぼしました。後年、土方が叩いた松
 の幹に瘤ができ、人々はこれを「歳三のこぶし」と噂し合った
 そうです。
 http://www.hokkaido-esashi.jp/kankou/gunyakusyo/nageki.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 開陽丸がなぜ座礁したかについて、必要以上の大砲を積み、重
装備にしたためにバランスが悪くなったのではないかという、開
陽丸自体に問題があったという説もあるのです。
           ── [明治維新について考える/70]


≪画像および関連情報≫
 ●なぜ、開陽丸が出撃したのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  榎本軍の鷲の木浜上陸以来、箱館府や松前藩との戦闘はほと
  んど陸兵だけで戦い、(海軍としての戦闘は軍艦による陸軍
  の松前城攻略の援護砲撃ぐらい)海軍の出番が無かっため、
  陸軍からだけではなく海軍からも不満の声が上がってきた。
  そこで榎本は、丁度、開陽丸が銚子沖の嵐の時に壊れた舵の
  修理が終わったのを幸いに、開陽丸を江差に向かわせ、海上
  からの砲撃で攻略する事に決めた。しかしすでにこの時の松
  前藩の戦力は弱体化しており、江差攻略は現在江差に向かっ
  ている松前からの土方歳三隊や厚沢部からの松岡四郎次郎隊
  の兵力だけで十分なのでいまさら軍艦を動かす必要は無かっ
  た。http://www.asahi-net.or.jp/~sk6t-ysd/hakosen/hakosen2r.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

土方歳三の嘆きの松.jpg
土方 歳三の嘆きの松
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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