しなかったのです。榎本は、大鳥圭介や土方らと協議して松前城
に使者を送り、次のメッセージを伝えたのです。その使者とは松
前藩士で、五稜郭での戦闘で捕虜にした人物です。榎本としては
なるべく無駄な戦闘をして戦力を消耗したくなかったのです。
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ともに蝦夷地開拓に当らん
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しかし、松前藩はその使者を斬り殺し、榎本軍に「ノー」を突
きつけてきたのです。榎本はもう一人使者を送り、翻意を促した
のですが、松前藩はその使者も斬り殺したのです。これで榎本は
松前藩を攻略する決心をしたのです。
明治元年10月30日、新彰義隊は知内(しりうち)村に進出
し、そこで中軍を務める額兵隊と合流して萩茶里村にまで進んで
全軍の到着を待ったのです。
その間蟠龍丸は敵情視察の目的で松前に入港し、そこに掲げら
れていた津軽藩旗を日章旗に取り替え、何発か艦砲射撃を行って
箱館に引き返しています。11月1日のことです。榎本としては
陸軍だけでなく、海軍との連携によって松前攻略を進めたかった
のですが、松前兵が戦闘に慣れておらず、ほとんど戦闘にならず
に、一方的に榎本軍が勝ち進んだのです。
11月2日に新彰義隊と額兵隊は、一ノ渡村に進撃したのです
が、松前軍はほとんど迎撃することなく、そのまま山崎へと退却
してしまったのです。そこで、新彰義隊と額兵隊は二手に分かれ
て、山崎を攻撃し、一時間ほどの銃撃戦で、福島に滞陣していた
松前兵を敗走させ、福島を占領したのです。そして、新彰義隊と
額兵隊はそのまま福島に滞陣し、後続部隊を待ったのです。松前
城はもう目の前にあったのです。
福島に総督の土方歳三が到着したのは11月4日のことです。
そこで、土方は再び軍を再編成し、次の体制で松前城を攻撃する
ことにしたのです。
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≪先鋒≫
・新彰義隊
≪中軍≫
・陸軍隊、砲兵隊、工兵隊、守衛新選組
≪後軍≫
・額兵隊
菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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4日夜に新彰義隊は松前城まであと2キロの地点である荒谷村
に宿営したのです。ここまでの戦闘はほとんどなく、一方的に押
しまくったのです。
松前藩兵は、松前城東方1キロのところを流れる及部川を背に
陣地を展開しており、文字通り背水の陣であったのです。松前藩
は、箱崎から青森に避難させていた150人の兵を戻して陣地を
固めていたのですが、その数はせいぜい250人程度しかいなか
ったのです。
11月5日午前7時に、松前攻略戦が開始されたのです。新彰
義隊は二手に分かれ、松ケ崎の敵陣に銃撃を加えると同時に、及
部川の東土手から対岸の松前軍の本陣に対して銃撃を行ったので
す。この銃撃戦は昼頃まで続いたのですが、遂に松前軍は敗走し
城中に逃げ込んだのです。
これを追って新彰義隊は及部川を渡り、陸軍隊と額兵隊もこれ
に続いたのです。額兵隊と砲兵隊は、松前城の東300メートル
の高台にある法華寺に大砲を引き上げると、城への砲撃を加えた
のです。新彰義隊はそのまま進軍し、松前城の城門を挟んでの攻
防がはじまったのです。
幕末の幕臣で、彰義隊隊士である丸毛利恒(まるもとしつね)
の記述した「北州新話」によると、このときの松前軍の戦いにつ
いて次のように記述しています。
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時に一隊の兵進んで拐手の城門に迫る。敵、門を開き野戦砲を
もって発砲、また閉塞して装弾す。かくのごとくするもの数回
我が兵破ることあたわず。 ──「北州新話」
菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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この「北州新話」の記述は、城門のところに大砲を並べておき
弾を込めて城門を開いて砲撃し、すぐ城門を閉じて同じことを繰
り返す攻撃が一定の効果を上げていることを示しています。
また、松前湾には援軍として、回天丸と蟠龍丸が進入し、艦砲
射撃を行っているのですが、波が高いために命中精度が落ちて有
効な攻撃にならなかったのです。
さて、松前軍の必死な攻撃に手こずった榎本軍は、何とか城門
を開けさせようとして、いろいろなことを仕掛けるのです。城門
が開くのを待って一斉に砲撃したり、総督の土方歳三は陸軍隊と
守衛新選組を使って城の裏手に回り、梯子をかけて城中に侵入し
たのです。そして内部から銃撃して城内を混乱させ、内部から城
門を開くことに成功したのです。
追い詰められた松前軍は、城に火を放つと、既に藩主の松前徳
広を逃がしている江差方面に向けて逃走をはじめたのです。午後
2時頃のことです。敗走する松前軍は城下に放火しながら逃走し
たので、松前市中の4分の3が焼失してしまったのです。
城内の火災が収まるのを待って、土方歳三は、新彰義隊、衝鋒
隊、守衛新選組を率いて入城したのです。陸軍隊は法華寺、額兵
隊は城下に焼け残った屋敷などに宿泊したのです。そして、榎本
軍は11月10日まで城下に滞在したのです。そして11日には
江差に追討軍を出発させています。
── [明治維新について考える/69]
≪画像および関連情報≫
●「松前城」についての情報
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松前城(まつまえじょう)は北海道渡島総合振興局管内松前
町にあった平山城で、福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれ
る。石田城と並び日本における最後期の日本式城郭である。
戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕
府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)との戦いにおい
て落城した。天守や本丸御門などが現存したが、天守は太平
洋戦争後に失火により焼失した。旧城内一帯が国の史跡に指
定されており、また、築城時から現存する本丸御門が国の重
要文化財に指定されている。2001年には北海道遺産に選
定された。 ──ウィキペディア
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松前攻略関係地図


