2011年05月19日

●「榎本軍団あっさりと五稜郭を占領」(EJ第3058号)

 榎本艦隊は折浜に集結したのです。宮城県石巻市の折浜です。
折浜に集結した7つの船舶のトン数を示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
       開陽 ・・・・・ 2817トン
       回天 ・・・・・ 1678トン
       蟠龍 ・・・・・  370トン
       長鯨 ・・・・・  996トン
       神速 ・・・・・  250トン
       大江 ・・・・・  160トン
       鳳凰 ・・・・・  130トン
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これでみると、さすが旗艦だけあって開陽丸がいかに大きいか
わかると思います。このほか、138トンの千代田形丸と341
トンの長崎丸があるのですが、これら両艦は庄内藩からの援軍要
請を受けて酒田(山形県酒田市)に出航していたのです。
 しかし、長崎丸は酒田沖北西の飛島付近で座礁し、沈没してし
まうのです。そこで、千代田形丸は庄内上陸を断念して蝦夷地に
向かうことになります。
 明治元年(1868)9月15日に降伏した仙台藩としては、
榎本艦隊には一刻も早く仙台から立ち去ってもらうことを望んで
いたのです。そこで、餞別代りとして、酒一斗入り1000樽、
沢庵300樽、味噌200樽、塩150俵などを贈って蝦夷地へ
の出立を促したのです。
 明治元年10月12日、榎本艦隊は折浜を出立して、14日に
は宮古港に到着、ここで燃料を積み込み、17日には宮古を発っ
て蝦夷地に向かっています。目指したのは、内浦湾の鷲の木沖で
あり、そこに10月19日に到着して錨を下ろしたのです。
 箱館の五稜郭には旧幕府の箱館奉行所があったのですが、そこ
を新政府は箱館府として使っていたのです。そこに箱館府知事の
清水谷公考がおり、薩長を支持する松前藩が中心の連合軍が五稜
郭を守備していたのです。
 箱館府の新政府軍は、松前、津軽、福山、大野の各藩兵の連合
軍約1500人です。榎本軍が鷲の木に上陸したという報を受け
清水谷知事は防御体制を取れと指示したのです。しかし、府兵の
士気は低く、あまり強い軍隊とはいえなかったのです。
 榎本武楊は、遊撃隊隊長の人見勝太郎と本多幸七郎に五稜郭の
箱館府知事宛ての嘆願書を託したのです。嘆願書の内容は、蝦夷
地を旧幕臣によって開拓し、あわせて警備することの許可を求め
るものです。もちろんそのようなことを箱館府知事が認めるはず
はないのですが、あくまできちんとした手続きを踏むというのが
榎本のやり方なのです。
 使節の人見勝太郎と本多幸七郎は、鷲の木から峠下村を経て七
重村に至り、五稜郭を目指す内陸部本道を進んだのです。使節に
は遊撃隊30人が護衛についたのですが、21日には大鳥圭介が
率いる伝習士官隊と伝習歩兵隊も同じ内陸部本道を進軍し、峠下
村の民家に宿営したのです。五稜郭はここから約28キロ先にが
あるのです。
 箱館府では、津軽・松前藩兵による七小隊を派遣して、峠下村
の大鳥軍に夜襲をかけたのですが、大鳥軍は銃撃戦に撃ち勝って
使節と合流し、五稜郭に向かいます。これが蝦夷地における初戦
なのですが、津軽・松前藩兵はあまり強くなかったのです。
 一方、同じ21日、土方歳三を総督とする額兵隊と陸軍隊は、
海岸沿いの間道を進軍し、川汲峠を越えて五稜郭を目指したので
す。こちらも川汲峠を越えるとき、銃撃を受けたのですが、たち
まち撃退します。そして25日には湯の川にまで達するのです。
五稜郭まで、あとわずか3キロです。
 ところが箱館府は25日に青森に撤退し、五稜郭は無人だった
のです。それを察知した大鳥軍は26日の早朝に五稜郭に入城し
土方軍も同日夕刻までに入っているのです。ここで箱館府軍と銃
撃戦でもあり、それに勝って入城すれば、連敗の大島隊に勝ち星
がひとつ付いたのですが、相手がいなかったので、勝ち星にはカ
ウントされなかったものと思われます。
 ところで、新彰義隊はどうしたのでしょうか。
 新彰義隊は長鯨丸に乗船していたのですが、室蘭に寄港してい
たので、鷲の木上陸が24日になってしまったのです。新彰義隊
は警備の目的でしばらく鷲の木にいたのですが、27日には文月
村まで進軍し、そこに宿営したのです。
 27日に五稜郭から使者がきて、軍議が開かれ、隊長の渋沢成
一郎と大塚雷之丞が出席しています。その軍議で松前攻略軍が編
成され、彰義隊はその先鋒を命じられたのです。総督は土方歳三
に決まったのです。
 ちなみに五稜郭とは、江戸時代末期に現在の函館市に建造され
た西洋様式の城郭のことです。日本の城郭は、銃砲戦を前提とし
ないものであり、居住施設である宮殿と軍事施設である要塞の分
離がほとんど行われていないのです。
 そこで、日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強
化と役所の移転問題を解決するために徳川家定の命により築造さ
れた城郭が五稜郭なのです。銃砲による戦闘が一般化した後のヨ
ーロッパにおける稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置し
ている点に特色があります。
 しかし、資金があまりなかったことや外国の脅威が薄れたこと
などにより、銃砲戦を含む戦闘のための城づくりという目的が忘
れ去られ、単に国家の威信だけが目的の建造物になり、そのため
日本流と西洋流がミックスされた中途半端な城郭になってしまっ
たのです。
 榎本軍が五稜郭を占領すると、直ちにそこは医師の高松凌雲に
よって、たちまち敵味方の重傷者を治療する箱館病院と化したの
です。        ── [明治維新について考える/68]


≪画像および関連情報≫
 ●「鷲の木」についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「蝦夷富士」との異名を持つ活火山、駒ヶ岳を背にする鷲の
  木は、戸数わずか150軒ながら鰊漁で潤う富裕な漁村であ
  り、兵糧調達面でも適していたし、また函館から小樽へと抜
  ける街道筋の要衝として、戦略的に重要な位置であった。東
  軍を実質的に統率する榎本武揚が、かつて蝦夷を訪れた際に
  得た土地感があったことも理由の一つであろう。また、すで
  に国際都市として外国人の居留が許されていた函館に正面攻
  撃を仕掛ける事は、諸外国の反発を招くだろうという、国際
  政治的配慮もあった。
       http://www.tamahito.com/hakodate/washinok.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●鷲の木から五稜郭の地図
  菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊

鷲の木から五稜郭までの地図.jpg
鷲の木から五稜郭までの地図
posted by 平野 浩 at 04:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。