2011年05月18日

●「勝海舟と榎本武楊の共同戦略」(EJ第3057号)

 榎本艦隊の船舶に乗って蝦夷地を目指したのは、榎本率いる旧
幕府海軍のほか、次の諸隊です。
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      伝習士官隊 ・・・・・ 160人
      伝習歩兵隊 ・・・・・ 225人
        一聯隊 ・・・・・ 200余人
        衝峰隊 ・・・・・ 400余人
        彰義隊 ・・・・・ 264人
        陸軍隊 ・・・・・ 160人
        砲兵隊 ・・・・・ 170余人
        工兵隊 ・・・・・  70余人
        遊撃隊 ・・・・・ 120余人
         旭隊 ・・・・・  25人
        新選組 ・・・・・ 115人
        額兵隊 ・・・・・ 252人
      会津遊撃隊 ・・・・・  70人
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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 これら諸隊の総計は2231人余であり、それに榎本の旧幕府
海軍の兵士を加えて約3000人ほどの軍勢が榎本艦隊の船舶に
分乗して蝦夷地に向かったのです。
 彰義隊人は、上野戦争に敗れると、再挙を期して町人などに姿
を変えて時を窺っていたのです。まるで赤穂浪士のようです。彼
らは、「無二諾」という割符を同志の証しとして身につけていた
といいます。
 ところで彰義隊の隊員はどのようにして、榎本武楊とコンタク
トをとったのでしょうか。なぜなら、隊長の天野八郎は新政府軍
に捕らえられ、旧幕府軍の要人とコネクションをとるのが難しく
なっていたはずだからです。
 それは、松平太郎を通してであろうといわれています。松平太
郎とは、大鳥圭介に通行証と軍資金を届けたあの松平太郎のこと
です。隊士の新井鐐太郎ほか数名の隊員が松平太郎に会い、榎本
への紹介状を入手したものと思われます。
 榎本と会って同行を許された彰義隊の隊士は、榎本からひとつ
の条件を突き付けられるのです。そのときの榎本とのやりとりを
菊地明氏の著書『上野彰義隊と箱館戦争史』から、問答スタイル
に直してご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 榎本武楊:実は君達よりも以前に、君達の同志の渋沢成一郎が
      35人ほど引き連れて来ている。渋沢は何か隔意あ
      って君達と別れたと聞き及ぶが、今日の場合、私怨
      などを持って互いに隔意あるべき場合ではないから
      ちょうど君達も首領(かしら)を失った今日、渋沢
      を首領にしたらよかろう。不承知か。
 彰義隊士:御言葉ですが、それはいけません。渋沢を首領に戴
      くことは御免を蒙ります。
 榎本武楊:それがいけない。君達はどうも頑固で困る。たとえ
      どんなに私怨があったにしても、今こうして我々に
      投じたからには隔意を去って、一致して働いてもら
      わんけりゃならん。マアよく考えて貰いたい。
  菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊より
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 彰義隊隊士は、榎本の言葉を無視できず、渋沢成一郎と話し合
い、「天野八郎の志を継いで、天野として尽くして欲しい」とい
う条件を出したところ、渋沢はそれを快く受け入れたのです。こ
こに彰義隊と振武軍は合体し、新彰義隊として、渋沢成一郎を隊
長に戴き、指定された長鯨丸に乗り込んだのです。
 ここで榎本武楊がこれまでの間、何をしていたのかについて考
えてみる必要があります。
 江戸城開城の4月11日夜、旧幕府海軍副総裁の榎本武楊は、
軍艦7隻を率いて館山に脱走したのです。新政府は勝海舟に対し
軍艦を品川に戻すよう要請したのですが、勝は、すぐには動かな
かったのです。榎本は、新政府軍との戦闘を覚悟し、場合によっ
ては、鹿児島、下関を攻撃すべく準備を整えていたのです。
 しかし、4月16日になって、勝は正式に出張というかたちを
とって、館山に出向き、榎本と話し合ったのです。実は勝は新政
府軍から、軍艦取り扱いについて正式に委任されており、しかも
榎本艦隊が品川に戻るならば、脱走の罪として咎めないという約
束を新政府軍から取りつけていたのです。
 勝海舟は榎本に対し、脱走のままでは戦闘になり、徳川家の処
分に悪い影響を与えること、加えて軍艦については自分は委任さ
れており、一部の軍艦しか引き渡さないという約束をしたので、
榎本艦隊は品川沖に戻ったのです。
 榎本は、東北諸藩からの支援の要請について勝と相談したとこ
ろ、勝は次のように榎本を説得したといいます。
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 勝は東国には人材がいない、そして東北諸藩はただ大国と人衆
 をたのみとしているだけで策略もはなはだ頗であるといい反対
 した。しかも、会津藩は忠あるに似て実はそうではなく、徳川
 氏が今日の状態となったのは会津藩のために誤られたためであ
 る。このことを知らないでみだりに干戈を動かそぅとするのは
 危険きわまりないという。つまり会津藩を信じてはいけないこ
 と、東北諸藩が勝利する見込みがないこと、したがって東北諸
 藩と同調して政府軍と戦う(朝敵行為)は、徳川家の存続が保
 障されたいま、決して徳川家のためにならないと忠告している
 のである。       ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
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           ── [明治維新について考える/67]


≪画像および関連情報≫
 ●福沢諭吉による榎本武楊の評価
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  福澤諭吉が評して言うには、「江戸城が無血開城された後も
  降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天
  晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も
  罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談であ
  る。勝敗は兵家の常で先述のことから元より咎めるべきでは
  ないが、ただ一つ榎本に事故的瑕疵があるとすれば、ただた
  だ榎本を慕って戦い榎本のために死んでいった武士たちの人
  情に照らせば、その榎本が生き残って敵に仕官したとなれば
  もし死者たちに霊があれば、必ず地下に大不平を鳴らすだろ
  う」と「瘠我慢の説」にて述べている。──ウィキペディア
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和装の榎本武楊.jpg
和装の榎本 武楊
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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