2011年05月17日

●「そのとき蝦夷地はどうなっていたか」(EJ第3056号)

 榎本武楊率いる旧幕府艦隊は慶応4年(1868年)8月19
日に品川沖を出港していますが、なぜ、直接蝦夷に向かわずに、
松島湾に行ったのでしょうか。
 実は榎本は7月のはじめに松平容保に越後方面への出動を要請
されていたのです。そのとき、榎本は8月20日頃には軍艦を率
いて仙台に向かうことを約束しているので、その約束を果たそう
として松島湾を目指したのです。
 しかし、榎本が着くのが遅かったのです。新政府軍の会津攻め
が想定外に早く行われ、仙台藩が降伏する直前に榎本艦隊は着い
たのです。榎本は土方と一緒になって、仙台藩を説得したのです
が、意思は変わらず、9月15日に仙台藩は降伏したのです。そ
して9月下旬には、会津、庄内、南部の諸藩が次々と降伏したの
です。これにより、東北戦争は終結したのです。
 そのとき、大鳥圭介は兵を率いて二本松から安立太良山を縦断
し、福島から白石に出て、そこで榎本艦隊が仙台に来ていること
を知ったのです。大鳥は急遽榎本に会うため、早駕籠で仙台に向
かったのです。仙台で大鳥は榎本の宿舎に行って榎本に会ったの
ですが、榎本は茫然としていたといいます。榎本と大鳥の間で交
わされた対話について、星亮一氏は次のように書いています。9
月15日のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「仙台には主戦派もおるが、恭順派が増えている。いずれ恭順
 は間違いない。そうなればこれ以上仙台にいても仕方がない。
 軍艦の準備が整い次第陸軍を諸艦に乗せ蝦夷地に向かい、天朝
 に嘆願して、脱走の者で彼の地を開拓せん」と榎本はいった。
 大鳥には大勢の部下がいる。大鳥は無言だった。(中略)仙台
 にはフランス人の軍事顧問ブリューネ、カズノフも来ていた。
 3年前、横浜で歩兵の伝習を受けたときの教官である。懐かし
 い顔ぶれだった。大鳥は彼らの滞在先を訪ね、積年の恩義を謝
 した。今市に3千両を運んでくれた松平太郎の姿もあった。大
 鳥は蝦夷地に行くことを決断した。
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 榎本艦隊には、大鳥圭介の率いる伝習隊の生き残り、彰義隊や
振武軍の残党、新選組の残党、会津遊撃隊、それに榎本率いる旧
幕海軍など約3000人が乗り込んで蝦夷地に向かうのですが、
そのとき、蝦夷地(北海道)はどのようになっていたのかについ
て知る必要があります。
 蝦夷地は、若狭武田氏の流れを汲む武田信広が宝徳3年(14
51年)に若狭から下北半島の蠣崎(青森県むつ市川内)に移り
その後蝦夷地に移住して蠣崎氏を名乗り、その地を治める豪族に
なったのです。
 当時道南には、和人──先住民のアイヌの立場から見たアイヌ
以外の日本人が、独立した道南十二館を築き、そこを拠点として
アイヌと交易を行ってきたのです。
 道南に移住した蠣崎氏は、その十二館のうちの一館である花沢
館主に過ぎなかったのです。この花沢館主は蠣崎季繁といい、武
田信広はそこの客将を務めたのです。
 長禄元年(1457年)に和人とアイヌとの間にトラブルが発
生して、武力闘争に発展したのです。これを「コシャマインの戦
い」といいます。この戦いでは当初アイヌが優勢であり、十二館
のうち、十館までアイヌに落とされてしまったのです。しかし、
武田信広は激戦のうえこれを制したのです。その結果、蝦夷地の
和人社会では、蠣崎氏が支配を強めるようになったのです。武田
信広は蠣崎氏を継ぎ、その子孫は江戸時代から松前の氏を名乗り
代々蝦夷地の南部に支配権を築いたのです。
 蠣崎氏は、豊臣秀吉や徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を
公認され、松前藩となったのです。このとき、北海道太平洋側と
千島を「東蝦夷」と呼び、北海道日本海側と樺太を「西蝦夷」と
呼んでいたのです。
 江戸時代が寛政以降の文化期に入ると、幕府は強力に南下政策
を続けるロシアを警戒して、寛政11年(1799年)には東蝦
夷地、文化4年(1807年)には西蝦夷を天領にして、文化6
年(1809年)にカラフト島を「北蝦夷」と改めたうえで、東
北諸藩に警備のための出兵を命じています。ここで、天領という
のは、江戸幕府の直轄領のことです。
 これが効いたのか、ロシアとの緊張は弱まったので、文政4年
(1821年)には蝦夷地の大半を松前藩に返却しています。し
かし、安政2年(1855年)には情勢が変化したとして、幕府
は再び天領にし、仙台、盛岡、弘前、久保田、松前の東北の大藩
に命じて沿岸の警備義務を渡り当て、会津も庄内も後からそれに
加わったのです。
 江戸時代後期になると、ロシアは領土を広げつつ日本と通商を
求めるようになり、鎖国を維持しようとする日本と北海道近辺で
たびたびトラブルが起きたのです。このトラブルがその後も続き
日露戦争に発展するのです。
 北方防備の必要を強く認識した江戸幕府は、最上徳内、近藤重
蔵、間宮林蔵、伊能忠敬らに蝦夷地を探検させ、地理的な知識を
獲得していったのです。
 榎本武楊が率いる艦隊が、旧幕府軍をかき集めて乗船させ、目
指そうとしていた蝦夷地は、以上のような状況になっていたので
す。蝦夷地に幕府が蝦夷奉行を置いたのは、享和2年(1802
年)のことであり、それが後に箱館奉行、松前奉行と名前を変え
ることになります。
 しかし、蝦夷は京都や江戸から見ると、さいはての地であり、
危機が去ると、警備や開拓がなおざりになり、日本の領土であり
ながら、どうしてもその他の地という扱いになっていたのです。
           ── [明治維新について考える/66]


≪画像および関連情報≫
 ●「蝦夷地」のまとめ
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  江戸時代、北海道のうち渡島半島(おしまはんとう)南端の
  松前(和人地)を除いた地域をさす呼称。日本の内地からは
  蝦夷人(アイヌ民族)が居住する異域空間として認識されて
  いた。太平洋側は東蝦夷地・下蝦夷地、日本海側は西蝦夷地
  ・上蝦夷地とよばれた。松前藩によるアイヌ交易、場所請負
  制が展開したが、18世紀半ばごろよりロシアが南下してる
  くるのに伴い、幕府は1799(寛政11)に東蝦夷地を、
  1807年(文化4)に西蝦夷地を直轄支配とし、内国に編
  入した。明治2年の北海道の成立により蝦夷地は消滅した。
                    ──ウィキペディア
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道南十二館.jpg
道南十二館
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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