政府に歯向う勢力はいなくなったのです。つまり、内戦としての
戊辰戦争は終結したのです。
ここで旧幕府艦隊を預かる榎本武楊について述べる必要があり
ます。慶応4年(1868年)7月、榎本武楊の率いる艦隊は、
品川沖にいたのです。勝海舟から徳川家が本当に駿河藩主になれ
るかどうかを見極めるため、足止めを食っていたのです。
そのときの江戸鎮台(東海道鎮撫総督府)は、軍艦をほとんど
持っておらず、榎本艦隊は相当な脅威だったのです。そのバック
アップの下に、慶応4年6月に徳川家を継いだ徳川亀之助は、蝦
夷地を徳川家で預かり、不毛の地を開拓させることにより、徳川
家臣の生活の道を立てさせたいという陳情書を江戸鎮台に提出し
ていたのですが、新政府から返事をもらっていなかったのです。
榎本は、この陳情書に関連して、「徳川家家臣大挙告文」とい
う長大な趣意書を起草し、勝海舟を通して新政府に提出したので
す。これについて、石井孝氏は次のように書いています。
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趣意書は、王政復古は一、二強藩の私意より出たもので、主君
慶喜に朝敵のぬれぎぬを着せ、城と領地を没収して、徳川の家
臣を路頭に迷わせるにいたったことを非難する。そこで徳川家
臣を救済するため、かつて蝦夷地の開墾を申請したが、いまだ
許可が得られず、いよいよ困窮して飢餓に迫ってきた事情を説
き、この実情を朝廷に訴えようとしても、それが朝廷まで届か
ないので、あえて一戦を辞さない覚悟をもって、江戸湾を退去
しようとするものである、とその意図を声明している。
──石井孝著
『戊辰戦争論』/吉川弘文館
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要するに、新政府に陳情書を出したが、無視されたので、蝦夷
にて一戦を交えるために江戸を離れるという宣言です。江戸を離
れる榎本艦隊としての表向きの理由の表明です。
7月19日、徳川慶喜は駿河府中への移転が許されたので、謹
慎先の水戸を出発し、銚子より旧幕府艦「蟠龍」に乗船したので
す。そして23日に慶喜は清水港に着き、宝台院に入って謹慎し
たのです。この謹慎が解けるのは明治2年9月になります。
これを見届けた榎本武楊は、8月19日深夜に次の8隻の旧幕
府艦隊を率いて品川沖を離れたのです。
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≪軍 艦≫
・「開陽」「回天」「蟠龍」「千代田形」
≪運輸船≫
・「長鯨」「三嘉保」「神速」「咸臨」
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艦隊の総員は約1000名だったのです。旗艦の「開陽」には
フランス軍事顧問団として来日中の砲兵大尉・ブリュネと砲兵下
士官・カズヌーブが乗船していたのです。
しかし、榎本艦隊にとってはさんざんの船出になったのです。
というのは、20日の天候はよかったのですが、21日は大荒れ
になり、23日には艦隊は台風に巻き込まれて、離散してしまっ
たからです。
それでも目的地の仙台領松島湾に、「長鯨」「千代田形」「回
天」「神速」「開陽」「蟠龍」は18日までに入港したものの、
「三嘉保」は下総黒生沖で座礁して沈没し、「咸臨」は相模灘に
逃れ、清水港にボロボロになって入港したのです。咸臨丸として
は、徳川家が管理する駿河藩の清水港なら安心できるとして、清
水港を目指したのです。
しかし、駿府藩の幹部は困惑したのです。そのとき駿府藩幹事
役をしていたのが、あの山岡鉄舟です。既に慶喜は駿府の宝台院
に入っており、新政府軍への対応は慎重を期す必要があったので
す。駿府藩としては咸臨丸の乗員は反乱軍であり、どうしても降
伏させ、出航を認めることはできない立場にあります。なぜなら
新政府は次のような厳重な布告を各藩に出していたからです。
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賊軍に加担する者は断罪に処す
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咸臨丸の修理には時間がかかり、一ヵ月が過ぎてしまったので
す。咸臨丸のことは新政府軍の知ることになり、富士山丸、武蔵
丸、飛竜丸の3艦が清水港に攻め入り、咸臨丸を砲撃の上、艦に
残っていた副艦長春山弁蔵ら7人を斬殺したのです。砲撃の間に
乗り組んでいた者の大半は、海に飛び込み、近くの三保貝島など
に泳ぎ着いたのですが、新政府軍はそのうち80人を駿府藩に命
じて禁固させたのです。咸臨丸は翌朝、官軍艦によって品川まで
曳航され、新政府軍に引き渡されています。
無抵抗のまま斬殺された7人の死体は、海中に投棄され、その
ままにされたのです。新政府軍は、死体はそのままにしておくよ
う指示したからです。
そのとき、新政府軍のやり方を真正面から批判した人物がいま
す。清水の次郎長その人です。「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍も
あるものか」──次郎長はそういって7人の遺体を海から引き揚
げて、丁重に葬ったといいます。
新政府軍は次郎長の行動はわかっていたのですが、それをとめ
ることはできなかったのです。次郎長の言っていることはまさに
正論であり、咎められなかったのです。これに感動したのは山岡
鉄舟です。次郎長の頭の中には薩長か徳川か、征服者か被征服者
かではなく、人間として正しいか、正しくないかという基準しか
なかったからです。
このようないきさつで、鉄舟と次郎長との付き合いは、このと
きからはじまり、鉄舟が亡くなる明治21年まで長く続くことに
なるのです。 ── [明治維新について考える/65]
≪画像および関連情報≫
●清水次郎長について
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博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を
拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように
清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期
航路線を営業する「静隆社」を立ち上げている。この他にも
県令・大迫貞清の奨めにより静岡の刑務所にいた囚徒を督励
して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾による英語
教育の熱心な後援をしたという口碑がある。
──ウィキペディア
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清水 次郎長


