2011年05月13日

●「大鳥・会津軍母成峠の戦いでも敗退」(EJ第3054号)

 会津軍と大鳥軍──軍事同盟というものは、勝ち戦が続いてい
ればよいが、このように敗戦が続くとうまくいかなくなるもので
す。このあと、大鳥軍と会津軍は明らかに波長が合わなくなって
いくのです。
 また、伝習隊の士官の間でも大鳥と意見の合わない者も出てき
たのです。伝習隊の士官で大鳥に反対したのは沼間慎次郎です。
沼間は大鳥の戦いには大胆さがないことを指摘したのです。確か
に大鳥は兵力も弾薬も不足しており、連戦連敗であったので、ど
うしても安全策をとって敗れていたのです。結局沼間慎次郎は、
兵の一部と一緒に伝習隊を離脱し、若松に去ったのです。
 二度にわたる今市の戦いは、会津・大鳥軍、新政府軍ともに多
くの死傷者を出したので、兵力の回復のためにしばらく戦闘はな
かったのです。このとき、山川は五十里に、大鳥は藤原にいて、
その状態が百日ほど続いたのです。
 EJ第3045号では、白河を落とした新政府軍が、仙台・米
沢攻撃を主張する大村益次郎と、会津を先に落とすべきと主張す
る板垣退助と伊地知正治の両参謀の意見が対立したものの、板垣
と伊地知の意見が採用され、新政府軍は会津攻めをはじめること
について述べています。話をその時点の新政府軍に戻します。
 会津攻めを先に行うことを決めた新政府軍でしたが、どのルー
トを通るかについて、今度は板垣と伊地知の意見が次のように対
立したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  伊地知の主張 ・・  母成峠 → 猪苗代 → 若松
  板 垣の主張 ・・ 御霊櫃峠 → 中地三代→ 若松
―――――――――――――――――――――――――――――
 2人はなかなか譲らず、兵を2つに分けて進軍することになっ
たのですが、これには長州の桃山発蔵が反対し、あくまで母成峠
一本に絞るべきであると主張したのです。結局、主力は母成峠、
陽動部隊は御霊櫃峠に進軍することで合意に達したのです。
 一方、大鳥圭介は、二本松に敵兵が集結していることを情報と
して掴み、新政府軍の会津攻撃は近いと読んでいたのです。8月
3日に大鳥は士官を連れて、猪苗代の木地小屋から二本松にいた
る石筵山に登ったのです。
 石筵山は、会津兵、二本松兵、仙台兵約500人が守っていた
のですが、これでは大鳥の兵を加えても700人程度にしかなら
ず、とても守りきれないと大鳥は判断したのです。
 ここを守るには最低でも2000兵は必要であると考えて、会
津軍事局と掛け合ったのですが、白河国境に主力部隊を張りつけ
白河口を警戒し大鳥の意見は無視されたのです。そこで大鳥は会
津藩家老の田中土佐、内藤介右衛門に会い、情勢分析を行ったの
ですが、彼らも次の戦場は仙台国境という考え方にこだわり、大
鳥の意見には耳を傾けなかったのです。
 しかし、事態は大鳥の予測通りになったのです。そのときの模
様を「戊辰戦争百話」のサイトから引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 八月二十日、伊地知・板垣両参謀に率いられた薩摩・長州・土
 佐・佐土原・大村・大垣の六藩の兵約三千は、会津攻撃の行動
 に移り、石筵・母成峠を若松に至る六十キロの前進を開始した
 のである。またこれとは別に三百余の別動隊が編成され熱海の
 東方三キロの横川村から中山峠を進撃するかのような陽動作戦
 もとられた。これに対し、石筵・母成峠を守っていたのは大鳥
 圭介の率いる伝習隊(旧幕府歩兵)四百を中心とした会津兵・
 新選組・二本松の残兵など計八百であった。まず会津兵の一部
 は二本松から母成峠にさしかかる伊達路の山入村で迎撃したが
 圧倒的に多数の西軍に追撃されて後退。翌二十一日、西軍は
 早朝より東側の伊達路(土佐・長州)、中央石筵口(土佐・薩
 摩・長州・佐土原・大垣)、西側間道(薩摩・大垣)の三道に
 別れて母成峠の勝軍山頂めがけて進んだ。
 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon/17.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝敗は最初から見えていたのですが、大鳥は伝習隊第二大隊と
二本松兵を率いて奮戦します。しかし、会津兵が真っ先に会津に
向かって逃げ出し、戦争にならなかったのです。結局、新政府軍
は、母成峠を制し、一挙に猪苗代城に向けて進撃してこれを落と
しています。このあとの会津藩の運命は、EJ第3045号〜E
J第3046号に書いた通りです。
 大鳥圭介をこのように紹介していくと、大鳥は戦争がうまくな
いととられがちですが、実戦の指揮官としては問題はあるものの
軍事戦略家としてはすぐれたものを持っていた人物であるといえ
ます。戦況を読むのに優れており、もし、会津藩がこの大鳥と山
川を会津城に置き、会津全軍の指揮を任せていたら、新政府軍は
相当てこずったと思われます。
 とくに大鳥は進軍に当たって占領地の集落に焼き討ちをかけた
り、食糧などを奪う行為を絶対に認めなかったのです。なぜなら
焼き討ちをかけたりすると、その集落の住民の怒りを買い、それ
が味方にとって決定的に不利になるからです。
 ところが会津兵は通過集落でも焼き討ちをかけ、住民から略奪
の限りを尽くしており、非常に嫌われていたのです。新政府軍が
母成峠に進軍したのも、会津兵が石筵の集落を焼き払い、その住
民から情報がもたらされていたからです。大鳥はそういうことを
よく知っており、石筵山から焼き討ちに遭った集落を見て、敵は
必ずここを衝いてくると確信をしたのです。
 さて、母成峠で敗れた大鳥たちはどうしたかというと、母成峠
の山中に逃げ込んだのです。そして山中をさまよっているうちに
いろいろな人物に会うのです。その中には庄内藩に落ちる土方歳
三もいたのです。大鳥は伝習隊の一部の兵や士官とも会い、会津
藩を救うために、米沢藩に向かうことにしたのです。
           ── [明治維新について考える/64]


≪画像および関連情報≫
 ●大鳥圭介について
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  1868年(慶応4年)1月28日、歩兵頭に昇進。鳥羽・
  伏見の戦い後の江戸城における評定では小栗忠順、水野忠徳
  榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張する。2月28日に
  は歩兵奉行(将官級)に昇進。江戸開城と同日の4月11日伝
  習隊を率いて江戸を脱走し、本所、市川を経て、小山、宇都
  宮や今市、藤原、会津を松平太郎[2]・土方歳三等と合流し
  つつ転戦し、母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けた
  ものの辛うじて全滅は免れ仙台に至る。
                    ──ウィキペディア
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大鳥圭介.jpg
大鳥 圭介
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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