るか──結局大鳥軍は壬生城攻撃をすることになったのですが、
軍議に時間がかかり過ぎ、既に壬生城は防御を固めてしまったの
です。しかも、攻撃当日は雨であり、大鳥軍は弾薬不足もあって
逆に壬生軍に攻め込まれて、多くの兵を失ったのです。
この戦闘で土方歳三は足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送
されたのです。土方は会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、こ
の間に近藤勇の墓を天寧寺に建てたと言われています。
大鳥軍はいったん宇都宮城に籠って防戦したものの、衆寡敵せ
ず、日光に退却して軍を立て直すことになったのです。日光には
多くの宿坊があり、沿道の領民の協力があったので、宿舎と食糧
は何とか確保できたのです。
しかし、大鳥軍が日光に立て籠って新政府軍と戦うことについ
ては、日光奉行の新庄右近は反対したのです。東照宮では、最悪
の事態に備えて神体と宝器などを会津に疎開させはじめているほ
どであり、大鳥軍の内部でも日光での戦いに反対する者も多かっ
たのです。日光を離れて、会津領の田島まで引き上げるべきであ
ると主張する者も多かったのです。
また、大鳥軍を攻める側の新政府軍・土佐藩の板垣退助として
も、土佐藩が幕府恩顧の大名であるだけに、日光を攻めるには躊
躇いがあったのです。そこで板垣は大鳥と連絡を取り、日光を避
けて今市で決戦しようと提案したのです。大鳥は板垣のその提案
を受け入れ、軍を今市まで撤退させたのです。
結果として板垣退助は日光を戦火から救ったのです。そういう
板垣の功績を称えて板垣退助の銅像が本山白雲の製作で、日光の
大谷川神橋のほとりにに建てられたのです。
慶応4年(1868年)4月28日、江戸から松平太郎なる人
物が大鳥のところにやってきたのです。松平太郎は、戊辰戦争が
勃発すると、2月には歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命され、陸軍
総裁・勝海舟の下で旧幕府軍の官軍への反発を抑える役目を負っ
ていたのですが、もともと主戦論者だった松平は大鳥圭介を何と
か支援したかったのです。
そこで松平は、大鳥軍の鎮撫という名目で新政府軍の通行証を
手に入れ、大鳥に会いにきたのです。当時の新政府軍は誰が味方
か敵かわからないので、新政府軍の通行証を持っている者は味方
と判断したので、通行証は貴重だったのです。それに加えて松平
は、軍資金3000両を大鳥に届けています。
松平太郎は、徳川家の移封が駿河70万石に決定すると、ひと
つの決着がついたとして、榎本武楊と共に軍艦にて江戸から脱走
し、仙台で大鳥・土方軍と合流して箱館に渡っています。
さて、大鳥圭介は今市で戦闘することもあきらめ、会津領に向
かうことにしたのです。今市は戦略拠点であり、本来なら死守す
べきであったのですが、兵力、弾薬、兵糧ともに不足していたの
で、会津領に入ることにしたのです。
しかし、会津までの山岳地帯を抜けての行進は苦難の連続だっ
たのです。途中でいろいろなことがあったのですが、なんとか閏
4月3日に五十里(いかり)に到着し、本陣で会津藩家老・菅野
権兵衛に会い、以後大鳥軍は会津の部隊との共同作戦で、新政府
軍と戦うことになるのです。
今市攻略作戦のために、大鳥圭介は、軍の再編成を次のように
行っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
第一大隊(元大手前大隊)/約450人
・隊長/隊長秋月登之助、参謀/牧原文吾、内田衛守
第二大隊(小川町大隊)/ 約350人
・隊長/大川正次郎 参謀/沼間慎次郎
第三大隊(元御料兵/七連隊)/約300人
第四大隊(草風隊/純義隊)/約200人
・隊長/天野花蔭、参謀/村上求馬、渡辺綱之助
──星亮一著/中公新書2108
『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
この軍団の総督は大鳥圭介、副総督は山川大蔵であり、大鳥は
第二大隊、山川が第三大隊を率いたのです。そしていよいよ閏4
月18日に大鳥会津軍は会津田島を出発したのです。
そのとき、今市には土佐兵が約800人が守備しており、日光
に彦根兵が700人いたのです。山川は近隣の猟師を20人ほど
集め、前線に配置して射撃させたのです。そのため、最初の段階
では大鳥軍は有利に戦いを進めることができたのです。
閏4月21日、山川は第三大隊の一小隊を中心とする陽動部隊
を編成し、今市の東に部隊を送り込み、日光街道を分断して敵の
退路を断ち、敵が東に気をとられているうちに西から大鳥の主力
部隊が攻撃するという挟撃作戦を実行します。
しかし、山川の陽動作戦は敵の準備が整わない最初のうちはき
わめてうまく展開し、陽動作戦としては成功したのですが、肝心
の大鳥の主力部隊の到着が遅れ、結局この作戦は失敗してしまっ
たのです。明らかに大鳥の失策です。大鳥がいくつかに兵に分割
したことが遅れの原因であったといわれています。
5月6日に第2回の今市攻略作戦が行われたのです。第三大隊
を中心に半ば要塞化した今市守備軍を総攻撃したのです。押し気
味であったので、途中から予備隊として配置していた第二大隊ま
で投入して、敵堡塁50歩のところまで迫ったのですが、それで
も落ちなかったのです。
そうしているうちに、板垣退助は日光からの増援部隊を大鳥会
津合同軍の背後を衝く作戦を実行し、戦いの流れを転換し、遂に
大鳥会津軍を跳ね返したのです。驚くべき土佐兵による今市守備
隊の粘りです。かくして大鳥軍は今市攻略を二度にわたって失敗
し、会津藩にとって北関東の出入り口である今市の奪還は絶望的
になったのです。 ── [明治維新について考える/63]
≪画像および関連情報≫
●土方歳三はどうなったのか
―――――――――――――――――――――――――――
土方歳三の負傷は宇都宮城の攻防戦の際のものだった。あら
かじめ山川大蔵が手配していたので、城下へ入るとすぐに将
軍家侍医だった松本良順がやって来て治療してくれた。「か
なり悪化しているが、骨を外れたのが幸いだ」と良順はいっ
た。幸運であった。越後長岡の河井継之助は長岡城の攻防戟
で、左足の中スネに被弾して、歩行困難となり、八十里越え
の難所を山駕龍で担がれて会津領の只見に至ったものの、化
膿したのに切断を拒んで死ぬのである。(中略)土方歳三が
会津で行動を起すのは七月に入ってからである。脚の傷が癒
え、漸く采配をとれるようになったのだ。流山から同行して
来た斎藤一は、ここへ来て山口二郎と改名していた。かれが
隊長となって白河口方面で新選組は戦っていたが、仙台藩が
薩長側へついたことで、会津は苦戟に陥り、白河口の防衛が
難しくなったのである。 ──早乙女貢著/NHK出版
『敗者から見た明治維新/松平容保と新選組』
―――――――――――――――――――――――――――
板垣 退助


