一回敗れたぐらいで戦争は諦めるべきではなく、会津や庄内など
佐幕派の藩兵を結集すれば相当の軍勢になる。それにわが伝習隊
の2千の兵が加われば、相当有利に戦える。あきらめるのは早過
ぎる──このように説得したのですが、慶喜は次のようにいって
反論したといいます。星亮一氏は次のように述べています。
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そういうことをいつでもいわれて騙される。過日の上京の節も
万一戦争にでもなると天朝に対して恐れ入ることであると言う
と、いろいろ評議のときに、会津や桑名は手に取るようにいっ
て、無理やりに兵隊を出発させ、ついに途中において衝突し、
戦争はやはり旨く行かぬ、お前の論もその流ではないのか。
──星亮一著/中公新書2108
『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
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大鳥はまるでやる気のない慶喜の態度に愕然としたのです。こ
の人は何を考えているかわからない。しかし、大鳥は自分を歩兵
奉行にまで取り立ててくれた幕府には感謝していたのです。
歩兵奉行といえば、旧陸軍でいえば「少将」、今日の自衛隊な
ら「陸将補」なのです。自分は軍人である。たとえ将軍が恭順姿
勢でも、このまま幕府が終ってしまうのは我慢がならないとして
ある重要な決断をしたのです。それは軍隊を率いて江戸を脱出し
同じ考えを持つ同志と一緒に幕府のために戦うことです。その決
断の日は慶応4年(1868年)4月11日のことです。
慶応4年4月11日といえば、江戸城開城の日です。その日を
期して大鳥圭介は、伝習第一大隊(大手町大隊)と伝習第2大隊
(小川町大隊)を率いて江戸を脱出したのです。
大鳥圭介のこの行動について、大鳥の側近である浅田准季(こ
れすえ)が次のように書いています。
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陸軍の将大鳥圭介、憤激報国有志の徒を率い、四月十一日の夜
都下を脱走し、黒髪山の神廟に拠り、討賊の義旗を挙げて、興
復を計らんとす、余不肖也といえど、この時、陸軍兵隊指図役
頭取に抜擢せられ、八十人の長官たり、伝習琴一大隊の官員に
加わりて、碓氷峠の陣営に在り、大隊の将本多幸七郎、山角膜
三郎、大川正次郎、山口朴郎、板橋淳次郎ら諸官数十人、兵隊
四百十一人、死を盟(ちか)いて、ことごとく大鳥圭介に属し
以て事を計る。 (『北戦日誌』『復古記』第十一冊)
──星亮一著/中公新書2108
『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
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大鳥軍は、現在の千葉県市川市の鴻之台に向かい、そこで土方
歳三以下、志を同じくする同志と合流することになったのです。
近藤勇率いる新選組は甲陽鎮撫隊を編成して甲府に向かっていた
のです。彼らは、幕府から2300両と多量の武器を支給され、
意気揚々と江戸を後にして甲府に向かったのです。
実はこれは勝海舟の策略だったのです。もともと新選組は江戸
の治安維持に当っていたのですが、彼らが江戸にいてことを起こ
されると慶喜を救うのが困難になるので、金と武器を与えて江戸
を追放したのです。
しかし、甲州街道の宿場町である勝沼に布陣していた土佐藩兵
と戦闘になり、新選組はボロ負けをしたのです。何しろ甲陽鎮撫
隊は近代兵器を使いこなせず、大砲すら撃ったことのない部隊で
あったので、はじめから勝てる戦闘ではなかったのです。
甲陽鎮撫隊はバラバラになり、近藤勇は下総流山で捕えられ、
処刑されています。しかし、土方歳三たちは何とか逃れて、鴻之
台で大鳥軍に加わることになったのです。これによって大鳥軍は
総勢2000人を超す軍隊となり、大鳥は総督に任命されたので
す。しかし、しょせんは寄せ集め部隊であり、大鳥も土方には遠
慮があったので、このことがあとで大きな問題になるのです。
問題はどこを目指すかです。選択肢は、宇都宮か日光かなので
す。軍議の結果、とりあえず徳川の聖地である日光を目指すこと
になったのです。しかし、そのときの軍議で兵站──軍資金や兵
糧、兵器・弾薬の補給についての十分な検討なしに日光に向かう
ことになってしまったことです。
この方針は土方独自の判断ですぐ変更されるのです。宇都宮城
の守りが手薄であるとの情報を得たからです。このときの先鋒は
秋月登之助が率いる伝習第一大隊と土方歳三が指揮をとる支隊で
あり、東南から宇都宮城を攻略することになったのです。北方に
は会津兵が展開したのです。4月19日のことです。
この戦いでは伝習隊の銃砲がものをいったのです。兵器の差は
歴然としており、激闘数時間で土方支隊が奮戦して宇都宮城を落
としたのです。
その頃、日光を目指す大鳥の本隊は4月17日に小山駅近くで
征東部隊と戦闘になり、撃退したものの、そのあと奇襲攻撃を受
け、大量の武器弾薬を失ってしまったのです。これがなかったと
しても、もともと兵器・弾薬は不足しており、これは大鳥軍団に
とって、相当の痛手になったのです。
日光に進むには、前方に壬生藩が立ちはだかっており、大鳥は
壬生藩と折衝に入ったのですが、壬生藩には、相当の数の官軍が
入っており、なかなか大鳥の思うようにはいかなかったのです。
結局、大鳥軍は壬生藩が提供した道案内人にしたがって、日光
に向かったのですが、そこに宇都宮城陥落の報が入ったのです。
そこで大鳥軍は急遽宇都宮城に向かったのです。
しかし、宇都宮は荒廃していたのです。宇都宮城の残兵はすべ
て壬生城に入っており、宇都宮にとどまるか、日光に向かうかに
ついて軍議で激論が交わされたのですが、なかなか軍議はまとま
らず、出撃は翌日になってしまったのです。この遅れが裏目に出
るのです。 ── [明治維新について考える/62]
≪画像および関連情報≫
●「宇都宮城攻防戦」
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写真は復元された宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓「清
明台」で、他の土塁より高く、天守閣の役割を果たしたので
はと言われている。城は堀・積み上げた土塁・石垣、本丸ま
での入り組んだ町並みなど北西側からの攻撃に対しては強靱
な構造になっているが、南東側からの攻撃に弱い。それを知
ってる旧幕府軍は、簗瀬村方面から攻撃する作戦を選び、僅
か千名たらずの旧幕府軍は攻め落とした。攻撃にあたって黒
羽藩(大田原市)の藩士3名を処刑し、意気をあげ「東照大権
現」幟を立て進軍ラッパを吹き鳴らしながら攻撃であったが
すんなり落城したわけではなかった。下河原門では新政府軍
の猛烈な反抗に会い、歳三は怯む味方を斬りすて鼓舞した。
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宇都宮城


