2011年05月10日

●「幕府伝習隊を創設した大鳥圭介」(EJ第3051号)

 慶応元年(1865年)3月に幕府はひとつの決断をしたので
す。フランスに勧められて、フランスから資金を提供してもらい
長州勢力に対抗するため、幕府直属歩兵部隊「伝習隊」を編成す
ることに決めたのです。
 最新鋭の後装式施条銃で武装し、フランス式教練を受けた散兵
戦術と臨機応変なゲリラ戦術を駆使展開できる歩兵部隊──それ
が伝習隊です。その事業の総括推進者は勘定奉行の小栗忠順だっ
たのです。
 慶応3年(1867年)1月13日、フランスの軍事顧問団が
指導者訓練のために横浜にやってきたのです。そのことを知った
大鳥圭介は小栗忠順に頼み、参加が許されています。
 中国派遣隊参謀長の経験があるシャノアン以下19人のフラン
ス人教官が来日し、部隊の編成、教練の方法、そして武器の扱い
方、いずれも当時の最新兵器を前提とする軍事戦術が指導された
のです。日本におけるはじめての士官訓練であったといえます。
大鳥はこれが縁でこの事業を手伝うようになります。
 幕府は部隊を編成するため、身長5尺2寸以上(157・56
センチ以上)の男性を500人募集したのです。本当は旗本の参
加を期待したのですが、旗本は鉄砲をかつぐのを嫌うので、全く
応募してこなかったのです。
 このとき大鳥の肩書は、歩兵指図役頭取──歩兵奉行であり、
歩兵隊編成を任されたのです。しかし、応募してきたのは、江戸
の博徒、やくざ、馬丁、火消しなどであったのです。さすがに眉
をひそめる上役に対し、大鳥圭介は「連中も犬猫じゃないんだか
ら、理をつめて話せばわかりますよ」と説き伏せて、部隊を編成
したのです。
 案に相違して、身分意識とプライドばかりが強い武士たちより
も、彼らは肌には刺青をし、背嚢にはサイコロを入れているが、
実に良く働いたのです。もともと柔軟身軽に戦場を縦横に駆けな
ければならない歩兵は、労働者階級職能軍人に向いており、忠誠
心より給料の高さが重要だったのです。それだけに、もし給金支
払いが滞れば、危険な暴徒と化す危険な集団でもあったのです。
 しかし、そのくらいでなければ、兵士としては使いものになら
ず、大鳥はそのあたりのことをよく心得て、彼らをまるで猛獣使
いのように、うまく使いこなしたのです。
 結局、大鳥はその後も募集を続けて4大隊を編成しています。
1大隊の兵数は約800人であるので、4大隊で約3200人で
あり、これを幕府伝習隊と称したのです。
 大鳥圭介と非常に似ているのが長州藩の大村益次郎です。とも
に医者の家系に生まれ、適塾に学び、兵学を極め、戊辰戦争では
敵と味方に分かれて戦ったのです。作家の星亮一氏はこの2人に
ついて近刊書で次のように紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (大鳥圭介は)慶応2年(1866)幕府の直参に取り立てら
 れ、開成所教授となったが、どうしてもフランス式操練を学び
 たい。幕府勘定奉行の小栗忠順に頼み、横浜太田陣屋で行われ
 たフランス士官による操練の伝習を受けた。それからは出世街
 道をトントン拍子に進んだ。(中略)同じようなタイプの人間
 に長州の大村益次郎がいる。大村も家系は周防国吉敷郡鋳銭司
 村の医者で、やはり緒方洪庵の塾で蘭学を学び、のちに長州藩
 の軍事参謀として活躍する。大村は連戦連勝、靖国神社に銅像
 があるが、大鳥は連戦連敗だった。「また負けたよ」と笑い飛
 ばす不思議な余裕があった。──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応4年(1868年)1月11日の早朝のことです。大鳥圭
介が小川町の屯所に出ると、江戸城から急使がやってきて、ただ
ちに登城せよと伝えてきたのです。
 この事態を受けて大鳥は、おそらく上方の戦争が劣勢で、伝習
隊を出せという命令だろうとと判断したのです。そこで大鳥は伝
習隊の士官を招集し、すぐにでも上方に出立できるよう準備せよ
との命令を出したうえ、急ぎ江戸城に向かったのです。
 ところが登城してみると、大勢の人がいて、ざわざわしている
のです。何事ならんと思い、陸軍の詰所に行くと、少佐以上の上
級士官が集まって深刻な顔で何やら話しているのです。大阪から
逃げてきた高官たちです。事情を聞くと、殿がお帰りになったの
で、帰ってきたというわけです。
 大鳥はその腑甲斐のなさに呆れてしまい、何であなた方まで江
戸に戻ってくるのかと怒りをぶつけ、このうえは上様に直に拝謁
して今後のことを伺うしかないと閣僚に申し出たのです。しかし
閣僚のいうには、いま上様のところには大名や旗本が大勢つめか
けているので、会えないというのです。
 しかし、大鳥は「会えるまで待つ」と告げ、ひたすらお召しが
あるのを待ったのです。そうしたら、夜中の12時頃になってお
召しがあり、西の丸の小さな居間に通されたのです。
 そのとき徳川慶喜は、疲労困憊の様子で居眠りをしていたとい
います。「圭介まいりました」というと、慶喜は「そうか」と応
じて小姓に酒をもってくるよう命じたのです。大鳥は慶喜に拝謁
したことはなく、初対面なのです。普通では絶対に会えない人で
あるのにこうして会ってくれるし、自分のことを知ってくれてい
る。大鳥は大変感激したのです。
 慶喜は「まずひとつ」と大鳥に酒を勧め、自分も一口含んでこ
う聞いたのです。「何か意見があるのか」と。そこで大鳥は「お
伺いしたいことがあります」といい、「今後どうされるおつもり
ですか」と聞いたのです。そうすると、慶喜は「どうするといっ
てもしょうがないじゃないか。何か考えがあるのか」と逆に聞き
返されたのです。このことは慶喜自身に「何の策もない」ことを
あらわしており、大鳥は愕然としたのです。
           ── [明治維新について考える/61]


≪画像および関連情報≫
 ●星亮一氏について
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  東北史学会会員、日本文芸家協会会員、日本ペンクラブ会員
  などの肩書きを持つ日本の作家。戊辰戦争に詳しい人物で、
  幕末の会津藩を舞台にした歴史小説を多く生み出している。
  早乙女貢ほどではないが、基本的に会津寄りの姿勢、薩摩・
  長州を強く非難する姿勢が特徴。05年には、戊辰戦争研究
  会も発足させている。最近刊として『大鳥圭介/幕府歩兵奉
  行、連戦連敗の勝者』/中公新書2108がある。
  http://www.kira-ku.com/category/7013
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星亮一氏の最新刊書.jpg
星 亮一氏の最新刊書 
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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