2011年05月09日

●「大鳥圭介という兵学者がいる」(EJ第3050号)

 東日本大震災が起きてその惨憺たる被害の状況が広がるなかで
戊辰戦争のことを書いていると、現実のことを書いているような
不思議な気持ちに襲われます。
 山形県出身の評論家の佐高信氏は、現在の政治状況を戊辰戦争
になぞらえて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 福島を含む東北地方はかつて「白河以北一山百文」といわれ、
 政治から切り捨てられてきました。薩長軍と会津藩の戊辰戦争
 (会津戦争)がきっかけですが、私は今回の復興対策の遅れを
 見ていると、「第2の東北処分」じゃないかと思えてくる。な
 ぜなら、菅首相は自ら「奇兵隊内閣」とか言って長州出身を強
 調しているし、小泉元首相は父親が薩摩出身。さらに安倍元首
 相の地元も長州です。つまり、薩長がいまだにこの国の政治を
 動かし、悪くしている。被災地の住民にしてみれば「テメェら
 本気でヤル気があるのか」と言いたいでしょう。そう思われる
 ような動きをしているのです。        ──佐高信氏
              ──「日刊ゲンダイ」GW特別号
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、ここまで言及してこなかった大鳥圭介という人物につ
いて述べる必要があります。大鳥圭介とは何者でしょうか。
 普通幕末・維新というと、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、
岩倉具視、伊藤博文、山形有朋など・・・という人物が称賛され
る傾向があります。しかし、これらの人々は幕府を倒して明治政
府を作った人ばかりです。つまり、勝者です。
 しかし、幕府の中にあって開国を進めた阿部正弘、幕政改革を
推進させた小栗忠順、咸臨丸で渡米した勝海舟、個人の力で国防
軍の創設を考えた江川坦庵(たんなん)、そして蘭学を学び世界
の情報を集めた福沢諭吉と、これからお話しする大鳥圭介がいる
のです。歴史というものは勝者によって書かれるのです。
 これらの人たちの中で、小栗忠順や勝海舟、それに福沢諭吉は
誰でも知っていますが、阿部正弘、江川坦庵、大鳥圭介ついては
知らない人が多いのではないかと思います。
 大鳥圭介は、播磨国赤穂の出身であり、代々医師の家系で祖父
も医師だったのです。そのため両親は、医師を継がせるため、近
くの医師・中島意庵に圭介を預けたのです。しかし、圭介は医師
になるつもりはなく、西洋の学問全般に興味を持ったのです。
 中島意庵医師はそういう圭介に対して、単なる医者の実務だけ
でなく、西洋学に関するいろいろな書物を貸し与えて読ませ、勉
強させたのです。
 こういう勉強を通して大鳥圭介は、本格的に西洋学を学ぶには
横文字の原書が読めなければだめだと痛感します。そこで両親に
は医師になるために必要だからと説得して、大阪に出て緒方洪庵
の適塾に入門したのです。嘉永5年(1852年)、大鳥圭介が
20歳のときのことです。
 適塾には長州の大村益次郎が弘化3年(1846年)に入門し
嘉永3年(1850年)に退塾しています。福沢諭吉は安政2年
(1855年)に大鳥と入れ違いに入門しているのです。とにか
くこのようにして、大鳥圭介は原書が読めるようになっていたの
です。当時のことですから、原書が読めると、いろいろな職業に
就くことができたのです。
 嘉永7年(1854年)9月5日、江戸に出た大鳥圭介は、両
親の手前、医師の勉強もしなければならないので、蘭方医の坪井
忠益の塾に入門したのです。ここでは数多くの原書を読むことが
できるので、それが狙いであったのです。
 坪井塾で大鳥は原書が読めるというので、塾長に抜擢されたの
です。それまで西洋学は毛嫌いされていたのですが、幕府が開国
を決断したことによって、西洋学はにわかに注目を集めていたの
です。大鳥のいる坪井塾はそういうわけで繁盛したのです。
 いろいろの原書を読むことによって、大鳥は国防の問題に関心
を持ち、兵学にのめり込んでいったのです。そのとき、大鳥は重
要な人物に会うのです。江川英敏がその人です。江川英敏は、わ
が国屈指の兵学者、江川坦庵(江川太郎左衛門英龍)の子息、後
継者であったのです。
 江川坦庵はどういう人物であったのでしょうか。ウィキペディ
アでは次のように紹介しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 江川 英龍は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太
 郎左衛門、または号の坦庵(たんなん)の呼び名のほうでよく
 知られている。地元の韮山では坦庵と書いて「たんあん」と読
 むことが多い。洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い
 関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地
 方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の
 昇進を重ね幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 坪井塾に来てから4年後、大鳥圭介は江川英敏に江川塾で教授
をやって欲しいと依頼され、坪井忠益の了解を得て江川塾に移る
のです。これで医学の道はあきらめ、兵学者として人生を過ごす
ことに決めたのです。
 江川塾に入ってから、大鳥圭介の名前は有名になり、尼崎藩に
召し抱え得られ、江戸藩邸に出かけて講義をするようになったの
です。大鳥はこれで士分に取り立てられたのです。尼崎藩は大鳥
の生地、細念村の領地だったのです。
 さらに徳島藩からも招かれるようになり、大島の名前はさらに
有名になり、やがて幕府の知るところになるのです。大鳥は、単
に各藩に講義をするだけでなく、兵書や砲術の本の翻訳に没頭し
たのです。このとき、大鳥の語学レベルは、オランダ語や英語の
かなり高い水準に達していたといわれています。
           ── [明治維新について考える/60]


≪画像および関連情報≫
 ●「適塾」について
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  適塾の開塾25年、その間にどのくらいの入門生があったか
  というと、およそ3000人と伝えられている。緒方洪庵の
  門弟3000人の中で訳文、執筆の教訓を身をもって守った
  ものの、第一は福沢諭吉である『福沢全集緒言』。適塾では
  教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問
  の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるもの
  であった。これらは慶應義塾大学の「半学半教」にもよく現
  れている。福澤諭吉が在塾中に腸チフスに罹った時、投薬に
  迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったと
  いうほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。
                    ──ウィキペディア
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適塾.jpg
適塾
posted by 平野 浩 at 04:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
平野 浩 様

拝啓 新緑まぶしき候となりました。

この度は小生の六代前(祖父の祖父)の人物につき詳論を賜り、感謝申しあげます。

小職の母方が大鳥姓を名乗っており、幼いころから「じいちゃん」の話を聞かされました。

戊辰の役での働きと、「後は降伏と洒落こもう」という大胆さ。結論としては「だからしっかり勉強しなさい」というものでした。

そんな母も一昨年他界し、大鳥圭介に関しても、

先祖を矢鱈に自慢する者は、今日一日の地に足がつかぬ者のすることだ、と意識してきました。

大鳥圭介自らは、何のブランドも、依るべき血筋もないところから人生をスタートしました。

しかし時代の荒波は、圭介を予想もしない道へと導いていきます。

明治維新後、日清戦争前後における圭介の行い。

考えるところは少なくありません。

小生は現在、大阪にあるキリスト教主義の女子大学に勤務しております。

通勤には地下鉄御堂筋線を用いており、

淀屋橋を過ぎるたびに、

適塾を思い起こします。 

この未曽有の東日本の危機を前にして、

有識者や政治家は利権も含めての意見を論じていますが、「じいちゃん」だったらどう考えるか、そしてどんな行動に出るか、真剣に考えます。

ともあれ、圭介は伝習隊の意地を貫いたと小職は信じたく存じます。

後は・・今を生きる私たちの課題に向き合うだけかと。

圭介に目を留めてくださり、ありがとうございました。

敬具 稲山 聖修 拝
Posted by 稲山 聖修 at 2011年05月09日 17:44
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