能代まで落ちて行ったのです。久保田藩で沢副総督を支援したの
は、勤皇派だけであったのです。そこに仙台にいる九条総督から
久保田藩に行くという連絡が入ったのです。
そして7月1日に九条総督は久保田藩に入り、沢為量副総督も
能代から久保田藩に移っています。九条総督と一緒に久保田藩に
は新政府軍の薩摩・長州・筑前・肥前・小倉の5藩兵が入り、総
督府は息を吹き返したのです。そのうえで、九条総督は改めて久
保田藩に庄内追討を命じたのです。
しかし、それでも久保田藩主は新政府軍側につくことを決断で
きなかったのです。なぜなら、藩主の周囲には同盟派の武士が取
り巻いており、決断の邪魔をしていたのです。この状況を見て仙
台藩は、九条総督に騙されたことを知ったのです。そもそも九条
総督の久保田藩行きの目的は、副総督と醍醐参謀を連れて報告の
ために帰京することであったからです。
久保田藩のこの様子を見ていた参謀の大山格之助は、仙台藩の
使者を暗殺する計画を立て、7月4日の夜、それを実行していま
すが、このことは既に述べています。これによって、久保田藩は
やっと新政府軍の一員として行動する決断をしたのです。
しかし、新政府軍と久保田藩の連合軍でも庄内兵を破ることは
できなかったのです。それどころか庄内兵は7月14日に新庄を
奪い、8月に入ると久保田藩領内に攻め込み、要衝の横手を攻略
し、9月のはじめには久保田城に迫ったのです。
この時点で、南部藩(岩手県)は久保田藩攻撃に参戦したので
す。南部藩も久保田藩と同様に奥羽列藩同盟には距離を置いてい
た藩であり、様子見をしていたのです。ところが、庄内藩の破竹
の進撃を見て、にわかに参戦を決めたのです。
南部藩は参戦すると、久保田藩をいきなり攻撃したのです。久
保田軍は庄内兵に手を焼いていたところに南部藩から攻撃を受け
たので総崩れになって撤退し、大館を失ったのです。新政府軍は
南部藩が参戦したことを受け、参謀の醍醐らは総督の命令で弘前
におもむき、津軽藩に南部藩の討伐を命じたのです。しかし、津
軽藩も消極的な藩であり、軍は出したものの、ほとんど戦闘らし
い戦闘はしなかったのです。
しかし、庄内藩の引き際は見事だったのです。米沢藩の降伏の
情報が入ると、9月16日夜半に一挙に全軍の撤退を開始したの
です。既に米沢藩とは降伏についての秘密交渉を済ませており、
降伏の方向性は決まっていたのですが、仙台藩の降伏のニュース
が届いた時点で降伏を決め、米沢藩に降伏の斡旋方を依頼してい
ます。それが9月17日のことであり、いかに素早い対応であっ
たかがわかります。
9月23日、米沢藩の斡旋によって庄内藩士吉野遊平は、参謀
の黒田了介(清隆)に会い、降伏謝罪書を手渡しています。黒田
は、武器の全ての引き渡しと開城が果たされれば、酒井家の領地
は安堵することを伝えています。
米沢・庄内攻撃は、黒田了介と西郷隆盛が行っており、この2
人は降伏対応にさいしては、きわめて寛大策をもって臨んでいる
のです。彼らは、実際に戦闘してみて、敵ながらあっぱれな戦闘
をした藩に関しては、それらの藩が降伏の意思の示した場合は、
寛大策をとる方針で臨んでいるのです。自陣に加えれば、新政府
のために役立つと考えているので、寛大策をとるのです。このよ
うにして、9月27日、庄内の鶴岡城を接収してこの方面の戦闘
を終わらせています。
この庄内藩の処分がいかに寛大であったかについて、石井孝氏
は次のように述べています。
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27日、西郷と黒田・大山は、鶴岡城内および武器を点検した
うえ、銃砲を新発田の総督府に送った。庄内藩の降伏は、きわ
めて寛大な条件で行なわれた。藩士には依然として両刀をおび
るのを許し、ただ自宅で謹慎するだけで、用事のあるときは外
出してもかまわなかった。まことに異例な降伏の条件である。
このとき、表面に立ったのは黒田であったが、西郷が裏面から
助言したのを想像すると、この降伏の様式は西郷の発案であろ
う。 ──石井孝著
『戊辰戦争論』/吉川弘文館
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水際立った庄内藩の降伏処理に比して、最後までごたごたした
のは、南部藩の降伏処理です。9月25日に南部藩は家老の三戸
式部が南部藩藩主の南部利剛の謝罪嘆願書を参謀の前山清一郎の
もとに提出したのですが、嘆願書の中に開城や兵器の引き渡しな
ど具体的なものが入っていないとし、前山清一郎はこれを突き返
しています。
そこで南部藩藩主の長子である利恭が横手の鎮撫総督府におも
むいて、降伏謝罪の改定文を提出しています。10月9日のこと
です。ところが、この嘆願書も「文中に不敬の部分あり」として
却下されています。
そこで南部利恭はさらに嘆願書を改定し、はじめて認められた
のです。そこには、責任者の処分、償金の提出、開城などが具体
的に記されており、南部藩の降伏が認められたのです。明治元年
10月11日のことです。
このとき、他のすべての諸藩は降伏しており、この南部藩の降
伏によって、新政府軍の奥羽越列藩同盟に加盟した諸藩との戦争
──東北戦争はすべて終了したのです。
降伏した東北諸藩から没収した石高は、約88万石となってい
ますが、これらの石高のほとんどは、鳥羽伏見の戦い以来戦功の
あった個人、諸隊、軍艦に総額75万石が与えられております。
しかし、戊辰戦争自体はこれをもってしても終らず、このあと
蝦夷地における「箱館戦争」が起こるのです。来週はこれについ
て書きます。 ── [明治維新について考える/59]
≪画像および関連情報≫
●庄内藩についての情報
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1859年北方警備のため、幕府から留萌・天塩を譲渡され
る。元治元年(1864年)江戸市中警護の功により2万7
千石を加増され石高は16万7千石に達した。幕末、上山藩
とともに江戸薩摩藩邸の焼討事件を起こし、新政府軍による
徳川家武力討伐の口実を作った。戊辰戦争では慶応2年、松
平権十郎を中心とする派閥が公武合体派を攻撃し、逮捕投獄
による藩論の統一を経て、会津藩とともに奥羽越列藩同盟の
中心勢力の一つとなった。(中略)当時日本一の大地主と言
われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に
商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を
購入し、軍の近代化を行っている。 ──ウィキペディア
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鶴岡城復元図


