2011年05月02日

●「会津藩降伏と庄内・南部両藩問題」(EJ第3048号)

 仙台藩が降伏したのは、慶応4年(明治元年)9月15日のこ
とです。その前日に新政府軍は、会津藩に猛烈な砲撃による総攻
撃を加えてきたのです。その結果、17日には新政府軍は完全に
若松城を包囲し、外部からの補給路は完全に断たれたのです。
 既に米沢藩は降伏し、仙台も降伏しようとしています。こうな
ると、会津藩としては降伏せざるを得ない状況に陥ったのです。
そこで会津藩主の松平容保は、米沢藩に使者を派遣して降伏の意
思を伝え、仲介を依頼したのです。
 米沢藩兵隊長は使者と同道して薩摩藩の陣営を経て、会津征討
軍の本営の土佐藩の陣営に行ったのです。そこで使者は板垣退助
と伊地知正治両参謀に会うことができたのです。両参謀は会津藩
降伏の意思を確認したうえ次の6つの条件を提示したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.22日辰刻(午前八時)を期して、大手門外に降伏と大書
   した白旗をかかげる
 2.松平容保・喜徳父子は政府軍の軍門に来て降伏を請う
 3.家臣の男子は猪苗代に移って謹慎する
 4.14歳以下、60歳以上の男子ならびに女子はどこに居住
   してもよい
 5.城中の傷病者は青木村に退いて引きこもる
 6.銃器・弾薬はとりまとめて、開城の日に政府軍へ引き渡す
                       ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを受けて松平容保は、降伏・開城することを重臣たちに告
げ、家臣一同には書状をもって開城の趣旨を伝えたのです。そし
て、慶応4年9月22日に会津藩降伏の式が行われたのです。降
伏の式の模様について、石井孝氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 午前10時すぎごろ、家老梶原平馬・同内藤介右衛門・軍事奉
 行添役秋月悌次郎・大目付清水作右衛門・目付野矢良助は、麻
 上下を着用して草履をはき甲賀町通の降伏式場におもむいた。
 正午ごろ、政府軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)・軍曹山県小
 太郎らが式場に来た。ついで松平容保・喜徳父子は、政府軍の
 諸隊が錦旗をかかげて整列するなかを、麻上下を着用し小刀を
 おび草履をはいて式場に臨んだ。大刀は袋に入れて侍臣が携帯
 した。容保は降伏書を軍監中村に提出した。これには、鳥羽伏
 見戦争以来今日にいたるまで「王師に抗敵」したことを「天地
 に容れざるの大罪」とし、それにより「諸兵器悉皆差上げ奉り
 速やかに開城、官軍御陣門に降伏謝罪し奉り候」と述べ、格別
 の寛典に処せられるよう嘆願した。──石井孝著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 松平容保父子は、式が終わると、いったんは若松城に引き揚げ
重臣や最後まで奮戦してくれた軍の隊長を城に呼び、その辛苦を
ねぎらっています。そのうえで容保父子は城を出て、薩摩・土佐
藩兵に守られて、新政府軍が指定した妙国寺に入ります。
 このとき新政府軍は、妙国寺のまわりを土佐・越前兵で固めて
警護し、大砲6門を寺に向けて設置し、毎夜篝火をたいて警戒し
たのです。容保父子は10月19日に東京に護送されるまでこの
妙国寺に完全に監禁されたのです。
 奥羽越列藩同盟は、もともと会津藩を救済するために結成され
た同盟であり、会津藩が投降した以上、新政府軍との東北戦争は
終結したといえます。しかし、まだ決着のつかない藩が2つあっ
たのです。それは庄内藩(山形県)と南部藩(岩手県)です。
 庄内・南部両藩が戦ったのは、新政府軍ではなく、直接的には
久保田藩(秋田藩)なのです。なぜ、そういうことになったのか
について説明する必要があります。
 徳川慶喜の追討令が出された慶応4年1月16日のことです。
その時点で新政府側は、久保田藩に対して同藩を東北の雄と持ち
上げ、その活躍を期待する旨の内勅を出しているのです。はじめ
から久保田藩は新政府軍側につく藩として認識されていたことに
なります。
 これに対して久保田藩は、京都に滞在する家老を通じてその内
勅に対して忠実に応えたいと朝廷に答えたところ、出羽国の触頭
(ふれがしら)を命じられたのです。ここでいう出羽国とは、今
日の山形県と秋田県にほぼ相当し、「羽州(うしゅう)」ともい
われたのです。
 2月16日に久保田藩は、使者を奥羽諸藩に派遣して、朝廷か
ら反徒追討の命を受けたことを知らせています。このような久保
田藩の行動について東北の雄藩は不快感を持ったのです。とくに
出羽国の庄内藩は無視し、米沢藩は久保田藩の使者を冷遇したと
いいます。とくに仙台藩は徳川慶喜の追討令に対して疑問を発し
朝廷に建白の使者を送っていたのです。仙台藩はこの建白を中心
に奥羽諸藩をまとめようとしていたのです。
 そして仙台・米沢両藩を中心に奥羽列藩同盟を結成すると、久
保田藩はその流れに抗しきれず、同盟に加盟するのです。この久
保田藩が政局の表面に出てくるのは、奥羽鎮撫副総督・沢為量が
久保田藩領に入ってからです。目的は、庄内藩征討であり、沢副
総督は、参謀大山格之助率いる薩摩兵を従えて、新庄に到着した
のです。4月23日のことです。
 しかし、庄内藩は非常に強かったのです。そこで沢副総督一行
は新庄から撤収して久保田藩に向かったのです。そして5月9日
に久保田藩の城下に入ったのですが、これに驚いたのは久保田藩
庁なのです。
 というのは、久保田藩は奥羽列藩同盟に加盟してから同盟派の
勢力が強くなっており、奥羽鎮撫副総督に領内に居座られるのは
迷惑だったのです。身の危険を感じた・沢為量副総督は、大館を
経て能代まで行ったのです。5月27日のことです。
           ── [明治維新について考える/58]


≪画像および関連情報≫
 ●石井 孝氏について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  東京生まれ。1933年東京帝国大学文学部国史学科卒業。
  東京大学史料編纂所所員を勤め戦後大阪大学教授、1953
  年横浜市立大学教授、1960年東北大学教授、津田塾大学
  教授。文学博士。孝明天皇の岩倉具視による毒殺説を唱えて
  原口清(当時名城大学商学部教授)と論争した。また大岡昇
  平の、森鴎外「堺事件」批判の論拠となったのが『明治維新
  の国際的環境』である。       ──ウィキペディア
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石井孝氏の本.jpg
石井 孝氏の本
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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