2011年04月28日

●「奥羽列藩同盟の盟主/仙台藩の投降」(EJ第3047号)

 新政府軍が奥羽列藩の主力藩の降伏条件を比較的緩やかなもの
にしたのは、降伏しない他の有力藩の降伏勧奨をさせるのが狙い
であったのです。とくに米沢藩は、仙台藩や会津藩とつながって
いるので、その降伏勧奨には重きを置いたのです。
 米沢藩の藩主の子息である茂憲が自ら新発田の総督府におもむ
き、会津藩攻めの先鋒を願い出たのは、米沢藩が中に入ることに
よって、会津藩にとってよりよい降伏条件が引き出せるのではな
いかと考えたからです。
 ところが会津藩よりも先に反応したのは、仙台藩であったので
す。というのは、仙台藩は南境の要衝である駒ヶ嶺城を失ってか
らは藩内で和平論が高まっていたからです。駒ヶ嶺というのは、
福島県の相馬市に近く、輪王寺宮のいる白石城にも近いので、列
藩同盟にとってはまさに落としてはならない重要地です。
 慶応4年(1868年)8月26日、米沢藩の使者木滑要人、
堀尾保助の両人が仙台にやってきて、仙台藩の重臣坂英力、石母
田但馬と面会し、米沢藩は降伏のための準備を進めていることを
知らせ、仙台藩にも降伏を勧めています。
 仙台藩は内心ではこの話に乗るつもりで検討をはじめたところ
そこに榎本武楊率いる旧幕府艦隊が松島湾に入港したのです。そ
のため、抗戦派が少し息を吹き返したのです。9月3日に城中で
榎本をはじめとする旧幕臣と仙台藩家老石母田但馬を加えて軍議
が行われたのです。そのとき、フランス人士官ブリュネも参加し
ているのです。
 榎本武楊は、奥羽地方は日本全国の6分の1を占めていてその
兵力を結集すれば5万人の兵力に達する。ここに軍務局を置いて
フランス人を顧問に雇って戦うべきであると説いたのですが、既
にその時点では大勢が決していたのです。そもそも榎本が到着す
るのが遅かったのです。これまで榎本武楊率いる艦隊は、一体何
をしていたのでしょうか。これについてはいずれ述べます。
 9月9日に宇和島藩の使者が仙台藩主宛ての勅書を持ってやっ
てきたのです。何の勅書かというと、仙台藩主伊達慶邦征伐の御
沙汰書です。これで仙台藩は朝敵になったことになります。使者
には家老の石母田但馬が会い、何とか和睦で話をつけられないか
と相談したのですが、使者は朝敵になった以上、降伏謝罪が絶対
条件であると説いたのです。
 石母田但馬は、使者に「1日待って欲しい」と頼み、仙台藩と
して重要会議を開いたのです。しかし、交戦か降伏かを巡って意
見が対立したのです。抗戦論者の松本要人などは、降伏などとん
でもないとして反対し徹底抗戦を主張し、石田正親、遠藤主税は
降伏して領国を保全すべきであると主張したのです。
 結局家老一同が藩主のところに出向き、藩主の裁決を仰ぐこと
になったのです。藩主伊達慶邦は、熟慮のすえ伊達家を存続させ
るために降伏という苦渋の決断をしたのです。
 9月12日に伊達慶邦は藩士に対し、書面で降伏する理由とそ
こにいたった経緯を知らせ、理解を求めたのです。徹底抗戦派か
ら降伏の情報を聞いた榎本武楊は、今度は土方歳三を連れて再び
登城し、奥羽の盟主が降伏するとは何事かということで大議論に
なったのですが、仙台藩の意思は変わらなかったのです。
 かくして9月13日──9月8日に「慶応」から「明治」に元
号が変わっている──降伏の儀式が行われたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (9月)13日、藩主は一門の伊達将監に正使を、家老の遠藤
 文七郎に副使を命じ、降伏謝罪のため相馬ロに派遣した。正使
 ・副使の一行には石母田但馬および宇和島藩の使者も加わり、
 二九日、今泉の民家で総督府の便番榊原仙蔵と会見した。榊原
 は上席につき、伊達将監以下仙台藩の使者は、麻上下の礼服で
 脱刀して下座についた。正使はうやうやしく、藩主伊達慶邦の
 降伏謝罪書を使番に提出した。そのなかで慶邦は、出先で家来
 が官軍に抵抗したのは「指揮不行届よりの致す所」と陳謝し、
 謹慎の意を示すためすみやかに城外へ退去するむねを述べてい
 る。一七日、正使以下が、総督府参謀の召喚でふたたび今泉浜
 にいったところ、参謀河田左久間(因州藩士)は、慶邦の謝罪
 状を総督が受領したこと、仙台城を没収し慶邦父子に謹慎を命
 ずること、を告げた。            ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、このような急転直下の降伏に不満を持つ仙台藩士は多
くいたのです。その不満分子のひとつが額兵隊を率いる星恂太郎
です。「額兵隊」とは何でしょうか。
 「額兵隊」というのは、慶応4年4月に結成された仙台藩が誇
る唯一の洋式銃隊であり、奥羽列藩同盟中の最精鋭部隊といわれ
ています。藩主の親衛隊として、仙台市中の警護を担当していた
部隊です。隊長は星恂太郎という人物です。
 しかし、額兵隊は仙台藩のいずれの戦役にも参加していないの
です。それは戦争ができるほどの弾丸がないということです。そ
のため、額兵隊はひたすら弾丸を製造していたのです。
 その弾丸の数が揃いつつあったときに、仙台藩に降伏の動きが
出てきたのです。そこで星隊長は、城下で大がかりな調練を行い
降伏帰順派を牽制したのです。この動きを重視した仙台藩主は、
星を9月13日に城中に呼び、降伏帰順が決まったので、みだり
に兵を動かしてはならぬと申し渡したのです。
 星恂太郎はこの制止命令に憤然とし、兵を招集して今まで藩主
に賜った恩に報いるために戦うことを宣言し、隊士たちを扇動し
たのです。そして仙台藩が降伏した9月15日に、星は額兵隊の
兵士800名を率いて岩沼に向かって行進をはじめたのです。
 これにあわてた藩主父子は自ら出向いて星を説諭し、引き返さ
せています。しかし、星の憤懣やるかたなく、兵士250人を連
れて、榎本艦隊に分乗し、蝦夷地に向かったのです。
           ── [明治維新について考える/57]


≪画像および関連情報≫
 ●「北帰行」/星恂太郎と額兵隊/仙台人物史より
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  額兵隊は慶応四年四月下旬、参政の葦名靱負、松本要人によ
  って組織された仙台藩の正規軍である。母体となったのは但
  木土佐の兵で、士官百人を選抜して城中に置き、楽兵隊と称
  して訓練を行っている。同年閏四月十五日、藩に呼び戻され
  た恂太郎が楽兵隊の教師となり、二大隊に編成して葦名靱負
  が隊長となった。五月になり新潟開港に伴って仙台藩は葦名
  と恂太郎に新潟出張の令を下す。隊の教師不在を嫌った葦名
  は恂太郎を留め置こうとするが、外国事情に精通しているも
  のが少ないため、藩はこれを却下し恂太郎の新潟出張を強行
  した。彼らの不在の間、隊長は但木左近、教師を菅原隼太が
  代行した。
   http://www.geocities.jp/gakuheitai_site/j-hoshi.html
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額兵隊の行進.jpg
額兵隊の行進
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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