2011年04月27日

●「会津藩必死の攻防と米沢藩の投降」(EJ第3046号)

 新政府軍としては、国境に出ていた会津藩の精兵が城に戻る前
に城を落とすか、城に入れない策を講じたいところであったので
すが、そのどちらもできなかったのです。
 しかし、新政府軍としては、城を包囲して精兵を城に入れない
ようにしたかったのですが、それもできなかったのです。城を完
全に包囲するだけの兵を集められなかったからなのです。
 そのため、会津兵は慶応4年(1868年)8月27日までに
は山川大蔵を先頭に入城し、城内の士気は最高に盛り上がったの
です。そして、籠城は次の体制で行うことになったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   家老/  梶原平馬 ・・・・ 本丸で政務を担当
   家老/  山川大蔵 ・・・・ 本丸で軍事を担当
   家老/内藤介右衛門 ・・・・   三の丸を守備
   家老/  原田対馬 ・・・・   西出丸を守備
   家老/ 海老名郡治 ・・・・   北出丸を守備
   家老/ 倉沢右兵衛 ・・・・   二の丸を守備
   家老/ 佐川官兵衛 ・・・・  城外で諸軍統括
                 ──星 亮一著/大和書房
          『偽りの明治維新/会津戊辰戦争の真実』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この人事で注目されるのは、すべてが20代の若手であること
です。藩主の松平容保は、このような非常時は老臣では対応不可
能と判断し、すべて若手に切り換えたのです。とくに梶原と山川
は若かったのです。
 この中で注目されるのは山川大蔵です。山川は、会津藩におい
てもっとも洋式の兵術に通じた優秀な部将で、砲兵頭を務めてい
たのです。山川は幕府の使節小出秀実に随行してロシアにも行っ
たことのある優れた人材だったのです。その山川は本丸にあって
軍事のすべてを握ることになったのですが、一番恐れたのは城へ
の砲撃です。日を追うにつれて新政府軍も続々と軍隊が増えてき
て守備にも限界が出てきていたからです。
 8月25日、新政府軍は猛攻をかけて、城外の要地小田山を占
領したのです。これは山川がもっとも恐れていたことのひとつで
す。ここからの敵軍の大砲の砲撃を恐れたのです。
 その恐れは現実のものになったのです。8月27日に新政府軍
は、小田山にアームストロング砲を設置し、連日大砲の速射をは
じめたのです。これだけではなく、他の陣地からも砲撃が行なわ
れ、城内には多くの死傷者が出たのです。
 しかし、城内の会津藩士たちは積極的に城外に出て、刀や槍で
戦ったのです。藩士の妻や娘も武装して直接敵と戦うなど、その
抵抗はすさまじいものであったのです。この戦闘で山川の妻も戦
死しているのです。石井孝氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 政府軍の猛攻にたいして、会津軍はしばしば城外で反撃を展開
 した。わけても八月二九日の反撃は壮烈をきわめた。会津軍は
 銃砲が不足していたため、多く刀槍をひっさげて弾丸雨下のな
 かを突進したが、いたずらに多数の犠牲者を出すにすぎなかっ
 た。この日の戦死者は一七〇人に達したという。(中略)看護
 と炊事は、容保の義姉照姫の指揮のもとに、藩士の妻娘や奥女
 中を動員して行なわれた。かの女らは、黒紋付に白無垢を重ね
 襷をかけ裾を高くかかげ、両刀をおびて、これに従事したとい
 う。敵弾は病室をも遠慮しなかった。しばしば病室にも落下し
 て、少なからぬ死傷者を出すことがあった。  ──石井孝著
                『戊辰戦争論』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで会津藩の話はひとまずおいて、米沢藩の話をする必要が
あります。新政府は、東北諸藩のすべてを力で屈服させようとは
思っていなかったのです。なぜなら、新政府にとって強敵な藩は
味方の陣営に引き込むと、そのまま重要な戦力になるからです。
 そこである一定の時期から、戦闘行為を平和攻勢に切り換える
方針でいたのです。8月18日、それは米沢藩に対して行なわれ
たのです。使節は土佐藩だったのです。なぜなら、土佐藩は米沢
藩と姻戚関係にあったからです。
 18日に土佐藩士の沢木盛弥は人夫に変装して、信夫郡(福島
県北部)庭坂の米沢藩陣営に行き、土佐藩の重職から米沢藩の重
職に宛てた書簡を軍監の杉山盛之進に手渡したのです。そこには
もし悔悟謝罪が行なわれるのであれば「祖先累代の祀りを認め、
藩租(上杉謙信)の英名を取り戻すことができる」と書いてあり
これが米沢藩を動かしたのです。
 米沢藩では、杉山盛之進を二本松の新政府軍陣営に派遣してい
るのです。そして25日に大村藩士で参謀の渡辺清左衛門と会見
できたのです。そのときに新政府軍が米沢藩に提示した条件とは
次の6点です。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.反乱の首謀者でも降伏すれば殺すようなことはしない
  2.真に悔悟謝罪の道が立てば本領を安堵することもある
  3.会津藩も真に悔悟謝罪すれば祖先の祀りを存続させる
  4.いったん滅亡した藩も降伏すれば多少の領地を与える
  5.奥羽諸藩で降伏内意あれば重臣を通じて申し出るべし
  6.輪王寺宮が入洛のうえ謝罪すれば、寛大な処置をとる
                ──石井孝著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このまま戦っても滅亡必至の米沢藩にとってこれは悪くない条
件です。8月28日、米沢藩主上杉斉憲は使者を派遣して投降を
申し出たのです。越後口総督府はこれを許したので、9月3日に
藩主は城外に退いて隠居し、その子茂憲は新発田の総督府におも
むき、会津征討の先鋒をつとめたいと申し出て、ゆるされている
のです。このようにして米沢藩は投降し、会津は孤立感を深めて
行ったのです。    ── [明治維新について考える/56]


≪画像および関連情報≫
 ●山川大蔵(浩)についての情報
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  会津藩家老職の家に生まれる。19歳で京都にいた藩主容保
  の命で上京し奏者番となる。幕府の樺太境界議定に随行、世
  界の体勢を学ぶ。会津戦争では新政府軍に包囲された鶴ヶ城
  を、彼岸獅子舞を奏して入城、総指揮をとる。明治2年松平
  家の家名を再興、翌年斗南藩大参事となり藩務にあたる。廃
  藩後は陸軍省に入り、少将まで進む。この間、東京高等師範
  学校長などを兼務。弟健次郎と共に編集した「京都守護職始
  末」は維新史の新生面を開いた。
 http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/jinbutsu/yhiroshi.html
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山川大蔵(浩).jpg
山川大蔵(浩)
posted by 平野 浩 at 04:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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