そこに白河口総督府を置いています。慶応4年(1868年)8
月の時点において、白河口総督府の方針では、仙台藩と米沢藩を
降伏させ、そのうえで会津・庄内藩の征討を実施することに決め
ていたのです。
しかし、この方針に反対したのは、白河口総督府の参謀である
板垣退助と伊地知正治の2人です。この2人の作戦内容をご紹介
しておきます。
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奥羽は寒さのきびしい土地で、いまから三、四十日たてば必ず
降雪をみるにいたるであろう。暖地の兵で厳寒の季節に作戦を
するのは不利である。もし仙台や米沢のために時日を空費して
いれば、年内に会津を攻略することはむずかしくなり、明春に
なるであろう。そうなるとわが兵は戦争にあき、これにひきか
え敵の防備はいまの十倍にもなるだろう。また時日をのばして
いるうち、内部に変化が生じないともかぎらない。そもそも会
津は根本で、仙台・米沢は枝葉にすぎない。いったん根本を抜
けば、枝葉はおのずと枯れるであろう。 ──石井孝著
『戊辰戦争論』/吉川弘文館
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新政府軍は、この2人の参謀の作戦計画にしたがって行動をは
じめます。8月20日に、薩摩、長州、土佐、大垣、大村の諸藩
兵から成る白河口新政府軍は白河口を進発し、簡単に猪苗代城を
落としたのです。8且22日のことです。
このとき、勇猛を持って鳴る会津藩家老・佐川官兵衛は、官軍
はすぐには攻めてこないと思うが、攻めてきたときは、戸ノ口で
防ぎ、十六橋の東に追い払うとして悠然と構えていたのです。し
かし、実戦経験の豊かな佐川にしては、この状況判断は大間違い
だったのです。
猪苗代湖から流れ出る川を日橋川というのですが、ここに十六
橋という橋があります。23日の未明のことですが、新政府軍は
日橋川を渡河し、いきなり攻め込んできたのです。
会津若松軍は、佐川官兵衛の指示通り、戸ノ口原というところ
で食い止めようとしたのですが、新政府軍の勢いは強く、突破さ
れてしまうのです。このとき、戸ノ口原を守っていた会津若松軍
の中に白虎二番隊の20人がいたのです。この20人が後で大変
有名になるのです。
新政府軍は凄い勢いで滝沢村に向かったのです。そのとき、会
津藩主の松平容保はその滝沢村に陣をはっていたのですが、あま
りにも新政府軍の進撃が早いので、やむなく城下に退却し、単騎
鶴ヶ城に入ります。そして、武士の家族も続々と城中に避難した
のです。
このとき会津若松にいたのは、400〜500人の兵士であり
しかもその構成員は老人や少年、もしくは、いわゆる文官といわ
れる人たちであり、その抵抗力はきわめて弱かったのです。会津
藩の精鋭は、下野方面や越後方面に出陣しており、城中にはいな
かったのです。
しかし、戸ノ口から敗走してきた白虎二番隊は、城に入れず、
間道を抜けて飯盛山に登ったのです。後から城に入ろうとしたか
らです。そのとき飯盛山に上がってきたのは、16人だったとい
われています。さすがに新政府軍も飯盛山までは攻め上ってはこ
なかったのです。
新政府軍はあまりにも早く進攻したので、後続部隊が続いてこ
なかったのです。そこで新政府軍の兵士たちは、街中に火を放っ
て、会津若松の町は黒煙が上がり、大混乱に陥ったのです。
しかし、会津兵が城に入ってしまうと、新政府軍としてはそれ
以上攻めるすべはなく、ここから約一ヵ月間、戦局は膠着状態に
なるのです。
ところで、飯盛山に登った白虎隊16人は、しばらくして鶴ヶ
城の方を見ると、黒煙が上がっている──16人は悲嘆の涙にく
れるのです。城は落ちた。きっと主君も自害されたであろう。も
はや生きていても意味はないとして、自刃して果てるのです。
「南鶴ヶ城を望めば〜」という有名な詩吟があります。これは
そのときの白虎隊16名のことを詠んだ歌なのです。現代語訳を
示しておきます。
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おりしも、南の方鶴ヶ城を見ると城は砲火に包まれ、黒煙がも
うもうと立ちあがっており、ついに城は落ちた。主君も自刃さ
れたであろう。少年たちはあまりの無念さに声をあげて泣き涙
を呑んで丘の樹間をさまよい歩いた。ついに会津藩は亡びた。
われわれの務めはこれまでである。こうなれば主君に殉ずるの
が道と16人の少年らは腹をかき切って倒れ、全員若き命を散
らしたのである。
http://ameblo.jp/suikogishin/entry-10100110661.html
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せっかく会津若松城下まで攻め込みながら、新政府軍の精鋭が
どうして落とすのに1ヵ月も要したのでしょうか。その理由とし
ては次の3つが上げられると思います。
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1.鶴ヶ城のような堅固な城は当時の兵器の力では陥落させる
のは困難である
2.新政府軍の進撃はあまりにも早過ぎ、後続軍が続かず、城
を包囲できない
3.城を出ていた会津藩の精鋭軍が続々と城に帰還し、兵力が
増強されたこと
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勝てる可能性がないのに、兵の数も少なく、武器も刀や槍以外
にはほとんどなかった会津藩ですが、この後、徹底的に抵抗する
のです。 ── [明治維新について考える/55]
≪画像および関連情報≫
●会津若松城(鶴ヶ城)について
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会津鶴ヶ城は至徳元年(1384)葦名直盛が造った『東黒
川館』が始まりと云われていて、後に会津領主の葦名盛氏が
改築し、現在の城郭の原型を築きました。当時の名前は『黒
川城』でした。文禄2年には蒲生氏郷が本格的な天守閣を築
城し、名前も『鶴ヶ城』と改められました。この時に積まれ
た石垣が400年以上経った今でも朽ちることなく、往時の
姿を忍ばせています。慶長16年(1611)に会津地方を
大地震が襲い、石垣や天守閣は大きく傾いてしまいました。
その時に天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築
き、ほぼ現在の姿の鶴ヶ城ができたのです。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/9185/tsurugajyo.htm
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鶴ヶ城


