2011年04月25日

●「秋田前線での庄内軍の強さの理由」(EJ第3044号)

 奥羽列藩同盟はどうやらかたちだけの同盟であったようです。
前にも述べたように、日本人は幕末の歴史を有名作家による小説
で読む傾向があり、戊辰戦争の実相が正しくイメージできていな
いようなところがありますが、戊辰戦争は近代戦だったのです。
 東京大学史料編纂所教授の保谷徹氏は、戊辰戦争を次の言葉で
表現しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戊辰戦争は近代的な兵器が本格的に使用された戦争であったと
 ともに、近世的な戦争がたたかわれた最後の機会でもあった。
         ──保谷徹著/『戊辰戦争』/吉川弘文館刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 奥羽列藩同盟の結束力が弱かった最大の理由は、近代的軍制改
革と最新式銃砲の装備が遅れた藩を中心に同盟に消極的であった
り、最終的に裏切りを行ったことにあるといえます。そのひとつ
の典型が秋田藩です。
 秋田には奥羽鎮撫総督府・沢為量副総督がもともと薩摩兵、長
州兵、筑前兵350名とともに駐留しており、秋田藩はその威圧
を受けて、あまり同盟軍には協力できない状況にあったのです。
 そこに慶応4年(1868年)7月1日に、九条総督率いる軍
勢895名(佐賀兵753、小倉兵142)が仙台藩使節11名
とともに到着し、新政府軍の総勢は、1245名に達し、とても
新政府軍に逆らえる状況ではなくなったのです。
 こういう状況になったことを背景に新政府軍は、秋田藩に対し
同盟を脱退し、庄内討ち入りを求めるプレッシャーをかけたので
す。一方、九条総督に同行してきた仙台藩士11名は、九条総督
が約束を破り、秋田に留まると主張したので、秋田藩に対し、同
じ同盟軍として抗議するよう働きかけたのです。
 同盟軍と新政府軍の両方からプレッシャーを受けた秋田藩は、
重臣会議を開き、同盟離反、庄内討ち入りを決めたのです。そし
て新政府軍にその証しを示すため、秋田に滞在中であった仙台藩
士11名のうち6名を殺害したのです。そして、7月11日に新
政府・秋田連合軍は、庄内藩をめざして進発したのです。
 そして7月12日に庄内藩に入り、戦闘が開始されたのです。
このとき、近代戦に弱い秋田軍は新政府軍をあてにし、新政府軍
は秋田軍の戦力を過大に評価して、主力を九条総督の周辺に配置
していたのです。しかし、庄内軍は強かったのです。
 庄内軍は近代兵器を装備し、訓練された強力な軍隊であり、そ
れに怒りに燃えた仙台藩兵が加わったので実に強かったのです。
そのため、新政府・秋田連合軍は14日に庄内軍に攻め込まれて
から連戦連敗し、7月末日には秋田藩内に押し返されたのです。
庄内軍は、8月11日に横手城を攻略し、秋田領南部を支配下に
収め、9月16日には、秋田城に手の届くところまで進撃して秋
田軍をあと一歩のところまで追い詰めたのです。
 ここに庄内軍側から見た秋田戦線の貴重な記述があります。和
田東吉氏の手になる『戊辰庄内戦争録』の記述を保谷徹氏が現代
語訳にしたものです。当時の庄内軍は一大隊600名の編成であ
り、これは四番大隊の戦闘の記録です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 午後四時過ぎ、中野村の手前、山田村で休息をとっていたとこ
 ろ敵が来襲。・・・激しい銃撃戦になり夜の八時まで続く。も
 はや互いの筒先の発火を目当てに撃ち合うのみとなった。(事
 態を打開するため、中野村に斥候をはなって放火させる)一度
 目は失敗、二度目で火の手が上がり、これに臼砲を打ち込み、
 銃撃を続けたところ、敵兵は火の手を背景に進撃してくる。七
 連発の奇銃で息つく間もなく撃ちたてたが、敵はいささかもひ
 るまない。半隊づつ左右に展開させ、片側に七連発、片側に先
 込の二帯銃を配置したところ、七連発の玉先が鋭かったのであ
 ろう、敵兵は二帯銃の側へ突進したが、隊列を崩さなかったと
 ころ、さすがの精兵もかなわないと思ったか、散り散りに敗走
 した(八月五日、四番大隊)。
         ──保谷徹著/『戊辰戦争』/吉川弘文館刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この記述でわかることは、庄内軍がスペンサー銃を使っていた
ことが「七連発」の記述からわかります。「二帯銃」というのは
保谷徹氏によると、2つバンドの短エンフィールド銃(前装式)
ということです。
 これに対する秋田軍は、ほとんどときどきしか弾が飛んでこな
いというので、前装式の銃を使っていたものと思われます。秋田
軍はこの装備の遅れがネックになって、秋田城まで押し返されて
しまったのです。
 しかし、秋田に入ってからは新政府軍の主力部隊が投入され、
また秋田の土崎港から武器の補給があり、秋田軍にも新式銃が与
えられたので、庄内軍は簡単には前進できなくなったものの、そ
れでも、明らかに秋田・新政府合同軍を圧倒していたのです。
 しかし、そのように押しまくっていた庄内軍は、9月19日に
なると、突然秋田藩内から姿を消してしまったのです。一体何が
あったのでしょうか。
 それは米沢藩と仙台藩が降伏して、今度は新政府軍として庄内
藩に攻め込んでくる気配を示していたからです。米沢・仙台両藩
といえば、列藩同盟軍の中核を占める藩であり、これが崩れると
いうことは、奥羽列藩同盟の崩壊を意味していたのです。既に同
盟軍で全藩を上げて戦っているのは、会津藩と庄内藩しかいなく
なってしまったのです。
 8月を超えると、もはや戦いの全体像は見えてきており、既に
大勢は決していたのです。後はどのような手順で最終の目的──
会津・庄内攻略を行うかです。基本的には、仙台藩・米沢藩を屈
服させ、そのうえで会津・庄内を孤立させることです。しかし、
この意見に反対する者がいたのです。
           ── [明治維新について考える/54]


≪画像および関連情報≫
 ●「スペンサー銃」についての情報
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  スペンサー銃は弾を次々と発射できるように、7発入り管状
  弾倉に収納されたリムファイアカートリッジを使用した。空
  になったときには、管状弾倉に新しいカートリッジを落とす
  ことによってか、または、ブレイクスリーカートリッジボッ
  クスと呼ばれる弾薬盒から素早く装填することができた。ブ
  レイクスリーカートリッジボックスには各7発入りのチュー
  ブが入っていた。6本入りと10本入りと13本入りがあっ
  た。ブレイクスリーカートリッジボックスは銃床内の管状弾
  倉を空状態にすることを可能にした。 ──ウィキペディア
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小銃の発達/試料編纂所jpg.jpg
小銃の発達/試料編纂所
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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