つあるのです。『戊辰戦争論』の著者、石井孝氏はこれについて
次のように書いています。
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輪王寺官が同盟列藩に下した令旨には、「薩賊」が「幼主」を
あざむき、廷臣をおびやかして「先帝の遺訓」にそむき、摂関
・幕府を廃止したことを「大逆無道、千古この比なし」と、き
わめて激越な言葉で非難し、これを討伐することを列藩に委嘱
している。これは、王政復古以降のすべての政治を否認したも
のといえよう。その文章の調子からいって、義観が起草したも
のであろう。もう一つの令旨には、「君側の奸臣」の罪をあげ
奥羽列藩だけでなく、東海・東山・北陸・鎮西の大小諸侯にい
たるまで「奸臣」征伐の策をめぐらすよう依頼している。なお
この令旨を欧文に翻訳して各国公使に告げ、世界の公論に訴え
ることをも希望している。 ──石井孝著
『戊辰戦争論』/吉川弘文館
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列藩同盟はこの令旨によって全国を統一することにあり、この
令旨の実行が列藩同盟の任務として与えられたことになります。
輪王寺宮をかつぎ出す前は、、単なる会津・庄内藩の救済であっ
たものが、大きくかたちを変えているのです。輪王寺宮が白石城
に入ったのは7月13日だったのですが、その翌日の14日に白
石城内に公議府が設けられているのです。
つまり、公議府が列藩同盟の中核になっていたのです。問題な
のは、その公議府を主宰したのが元老中のあの板倉勝静と小笠原
長行だったことです。
このうち、輪王寺宮の軍事総督就任はあくまでかたちだけのも
のですが、軍事総督の下の軍事総裁──実際の軍事指揮官があの
竹中重固なのです。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を敗戦に導いた
司令官です。
つまり、列藩同盟の中枢機関が白石に移ったことは、同盟の主
導権が板倉勝静と小笠原長行を擁する旧幕臣の手に移ったことを
意味しているのです。これの意味することについて、石井孝氏は
次のように述べています。
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列藩同盟が旧幕臣に指導されるようになったことから、この同
盟の絶対主義化を結論する見解がある。なるはど、列藩同盟を
指導する旧幕臣のなかには、かつて徳川幕府の絶対主義化を指
導した人びとが含まれている。しかし、こうした旧幕臣たちも
おくれた同盟諸藩に依拠しているかぎり、到底、同盟の絶対主
義化を推進する基盤をもてない。かえって指導者である旧幕臣
と諸藩との対立が暴露された。旧幕臣が仙台藩の「因循」を慨
嘆しても、それを「激発」させることはできなかった。
──石井孝著の前掲書より
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輪王寺宮が白石城に入城した7月13日に、福島の浜通りの要
衝である平城が落ちたのです。福島には、浜通り、中通り、会津
地方の3つがあるのですが、その浜通りの平(いわき市)には、
あの福島原発があるのです。
それまで新政府軍は、平潟口(北茨木市)から何回も攻撃を仕
掛けたのですが、頑強な抵抗にあってなかなか落ちなかったので
す。しかし、7月13日に折からの風雨を衝いての新政府軍への
猛攻には守り切れず、同盟軍は城を焼いて逃走しています。
平城が落ちたことによって、同盟軍には不利な状況が次々と出
てきたのです。まず、三春藩(福島県三春町)の裏切りによって
二本松城が落ちたことです。7月29日のことです。
ちょうどこの29日に北越戦線で河井継之助の率いる同盟軍の
決死隊が奪還した長岡城が新政府軍によって再度奪い返されてい
るのです。これによって、新政府軍は白河口と越後口の双方から
会津を挟撃する態勢ができたことになるのです。
天下統一という目標を持って最新式の銃砲を有して進撃する新
政府軍と列藩同盟軍の士気の差は歴然としていたのです。福島藩
などは二本松城が落ちたことを聞くと、たちまち戦意を喪失し、
福島藩主の板倉勝尚は家臣を連れて米沢藩に逃れたのです。しか
し米沢藩では、藩主と数人の家臣は受け入れたものの、他の者の
入国を拒否したので、やむをえず福島に戻ったところ、福島はま
だ落ちていなかったといいます。
とくにひどかったのは、仙台藩のていたらくです。まるで戦意
がなく、白石城にいる輪王寺宮も不安になって「御苦労ながら、
速やかにご出陣、諸隊勉励」というハッパをかける始末です。こ
れについて、佐々木克氏は次のように述べています。
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東北戦争の全局面で仙台藩兵の評判がきわめて悪かった。「真
に惰兵とは是等の者を云なるべし、仙人数兎角用心」(『二本
松藩史』)と同盟の仲間にまでいわれる始末である。仙台藩の
兵士は、藩直属の兵士数は約七千と少なく、あとは門閥の家臣
(二万石から警石の館主)の私兵であった。つまり仙台藩の軍
団は、それ自体小領主の兵士団による集合体より編成されてい
るのである。したがって装備の面でもそれぞれ差があり、統一
的な訓練がなされていなかった。それが実戦に出て、大きな障
害となったのであった。 佐々木克著
『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
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列藩同盟の中心的存在である仙台藩がこの有様では、勝てる戦
争でも負けてしまうものです。これに比べると、北越戦局の長岡
藩や二本松藩などはよく戦った方であるといえます。
仙台藩兵が弱かったのは、軍制改革の遅れた純粋な封建的軍隊
であったからであり、最新式の銃砲と近代的な軍隊の新政府軍に
は歯が立たなかったのです。 [明治維新について考える/53]
≪画像および関連情報≫
●テクノロジーの差で敗れた奥羽列藩同盟
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当時の東北諸藩はまるでテクノロジー音痴であった。新政府
軍と戦って施条銃の優秀さを知る。あわててスネルより新式
銃を新潟港より輸入する。それは6月に入ってからである。
当時の日本では戦時捕虜の概念が存在しなかった。負傷し、
第一線に残置され、敵方に発見されたらまず首を取られた。
所持している鉄砲(持っている兵は少なかった)が、旧式で戦
いにならない現実の中で、生き残りたいという動物的反応を
行った。すなわち戦場逃亡である。一般的にテクノロジー無
視の指導部は精神主義に陥る。極論すると精神力は鉄砲の弾
に勝り(必勝の信念) 戦いで死ぬことを命じた。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/sendaiyonezawa.htm
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●奥羽戦争地図/出典:石井孝著/『戊辰戦争論』
/吉川弘文館より
奥羽戦争地図



日本人の精神力が足りなかったために、戦場においても工場においてもアメリカ人の精神力に負けたのだと考えていたとしたら、それは日本人の誤りである。
日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、日本人には能動はないが、願望はある。
米空軍が日本の都市を爆撃し始めたころ、航空機製造業者協会の副会長は「ついに敵機は我々の頭上に飛来してまいりました。しかしながら、我々航空機生産のことに当たっておりますものは、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまして、これに対処する万全の準備をすでに完了いたしております。したがいまして、何ら憂慮すべき点はないのであります」と述べた。
すべてが予知され、計画され、十分に計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ、日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、決して受動的に他から押し付けられたものではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができた。
日本人がどこで希望的観測の罠に落ちるのか、現実と願望 (非現実) を取り違え精神主義に走るのか、きちんと振り返り反省することはほとんど不可能である。
それは、日本語に時制がないからである。
日本語脳においては、現実と非現実を異なる時制を使って表現することができない。
現実を現在時制の内容として表し、願望を未来時制の内容として表すことができれば、それぞれの内容は別世界の内容となり、混乱することはない。混乱しなけれぱ゛キリスト教のような宗教になり、混乱すれば原理主義となる。
だがしかし、我が国では、一つの事態の肯定と否定は、同じ世界のこととして言い表される。
人々は、無為無策でいながら現実が願望へと突然変化 (反転) することをひたすら願うものである。
言霊の効果の出現を望んでやまない。
必勝を心の底から祈願すれば、悲惨な玉砕もあっぱれな勝ち戦に見えてくる。
実現不可能な欲望の思い込みが強すぎて、現実直視は困難になる。
これが、日本人の精神主義の本質である。
日本人は、祈願を他力本願・神頼みとしておおっぴらに認め合っている。
問題解決の能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
この閉塞状態が日本人の知的進歩の限界となっている。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812