ることにします。閏4月20日、世良修蔵が処刑された日、奥羽
の玄関口である白河城は、東北諸藩軍──会津・仙台藩兵の手に
よって落ちたのです。
これと同時に、奥羽鎮撫総督の九条道孝と参謀の醍醐忠敬は、
仙台藩重臣の屋敷に移送されたのです。もちろん丁重に扱われて
いたとはいえ、事実上の軟禁状態に置かれたのです。これは仙台
藩の策略であり、九条道孝を手元に擁することによって、列藩同
盟の盟主としての地位を守ろうとしたのです。
しかし、銃砲において圧倒的に勝る新政府軍は、同盟軍を圧倒
し、5月1日に白河城を奪い返しているのです。この2日後に奥
羽列藩同盟が結成されています。しかし、白河城が落ちても新政
府軍はどちらかというと、守勢に回り、7月下旬までは大きな戦
局の進展はなかったのです。
なぜなら、大村益次郎は江戸の完全平定までは援軍も軍資金も
白河城に送らなかったからです。そのため、白河城では兵力の補
充がなかなかつかず、防戦一方になったのです。
そのとき、奥羽鎮撫副総督の沢為量はどこにいたのかというと
庄内征討のため新庄に出張しており、5月1日に秋田に転陣して
いたのです。
ここで新政府軍と東北諸藩との関係を整理しておく必要があり
ます。このときの新政府軍の敵はあくまで会津藩であって、奥羽
鎮撫総督府が仙台・米沢両藩をはじめとする東北諸藩に会津藩征
討を命じていたのです。
しかし、奥羽列藩同盟に対して秋田藩は協力的ではなく、副総
督の沢為量が新政府軍兵士と秋田にいることに不安感を持ってい
たのです。そこで、同盟側としては秋田藩に働きかけ、副総督を
秋田に置くのはよいが、その護衛は米沢藩が担当するので、新政
府軍兵士(薩長兵)は秋田から海路帰国させようとしたのですが
こんなことが実現するはずもなかったのです。
新政府軍としては総督府の九条道孝が仙台藩にいる状態は好ま
しからぬことであると考えたのです。そこで閏4月27日、肥前
藩(佐賀藩)の前山清一郎を参謀とする肥前・小倉藩兵より成る
新政府援兵が仙台に到着したので、この問題を解決するよう前山
に働きかけたのです。
前山は、九条総督の護衛を名目に肥前・小倉藩兵は仙台城下に
入り、仙台藩に九条道孝との面会を要求し、5月14日に九条道
孝と会っています。そのとき、前山は一案を九条総督に提案して
いるのです。
この会談後、九条総督は、仙台藩に対し、奥羽鎮撫の実効があ
がっていないので、九条自身が朝廷に出て申し開きがしたいと話
したのです。そのとき東北諸藩の事情を説明したいし、副総督の
沢為量にも会いたいので、盛岡から秋田を経て上京したいと述べ
仙台藩側は基本的に問題なしとして、内諾していたのです。
しかし、そういう問題は列藩同盟の検討事項とすることになっ
ていたので、5月15日に列藩会議が仙台で開かれたのです。列
藩会議では、九条の上京は認めるべきであるが、秋田経由は危険
であるという意見は多かったのです。したがって、秋田で、薩・
長・筑兵に加えて肥前・小倉藩兵が結集する事態は避け、九条は
奥羽諸藩兵が護衛して、仙台から海路京都に送るべしという意見
が出されたのです。
しかし、仙台藩としては既に内諾を与えており、九条総督を信
用すべきだと主張して、押し切ったのです。そして、九条は18
日に仙台を立って、盛岡に向かい、秋田で副総督の沢為量と会い
以後、秋田を政府軍の本拠地として、奥羽列藩同盟軍と対決する
ようになります。仙台藩は完全に騙されたのです。
まんまと九条総督を奪われた列藩同盟軍は、何らかの方法で朝
廷と接点を確保するため、思いついたのは輪王寺宮なのです。そ
のとき、輪王寺宮は、寛永寺を逃れ、旧幕府軍艦・長鯨丸で江戸
を脱出し、5月28日に平潟(茨城県)に上陸、それから陸路を
辿り、会津若松に入っていたのです。
もともと仙台藩を除く同盟諸藩は、仙台藩が主導権を握ること
を快く思っていなかったのです。そのため、仙台藩が輪王寺宮を
抱え込み、仙台城下に置くことを警戒したのです。そこで、奥羽
諸藩は列藩会議を開き、輪王寺宮の住居を白石城にすることにし
その警備や経費は列藩の負担で行うことを決めたのです。これは
主として、米沢藩の主導によるものです。
実はこの「白石城」というのは、絶妙な場所に位置していたの
です。白石は仙台藩の領地ではあるものの、福島藩に近く、同盟
の本拠が仙台から白石に移ることは、同盟内における仙台藩の地
位の低下につながるからです。そこで、仙台・会津・米沢の3藩
は、これについて輪王寺宮の意見を聞くことにしたのです。
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仙台・米沢・会津三藩士は、覚王院義観を通じて輪王寺官の意
向を聞いた。義観が官の意向としてもらしたのは、つぎのよう
なことである。一部の奸臣が陰謀をもって、先帝の確定した朝
政を改革し、徳川氏および会津・庄内二藩に朝敵の名を負わせ
たのは、はなはだ不満であるから、ただ奥羽諸藩に依頼して、
君側の奸を払うことのみを念願している。自分はいったん仏門
にはいった身だから、軍事を総裁しようなどとの意向は少しも
ない。住居については、列藩が白石をよいとするならば、なん
ら異議をもたない。以上のようなことだったので、三藩士は君
側の奸を払うという官の決意に満足して引き下がったのであっ
た。 ──石井孝著
『戊辰戦争論』/吉川弘文館
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そして、7月13日、輪王寺宮は白石城に移り、同盟列藩の推
載を受けて軍事総督と呼ばれたのです。
── [明治維新について考える/52]
≪画像および関連情報≫
●「輪王寺」についての情報
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創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受け
て繁栄を極めた。明治初年の神仏分離令によって寺院と神社
が分離されてからは、東照宮、、二荒山神社とあわせて「二
社一寺」と称されているが、近世まではこれらを総称して、
「日光山」と呼ばれていた。「輪王寺」は日光山中にある寺
院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在している。国王
重要文化財、など多数の文化財を所有し、徳川家光をまつっ
た大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い。境内
は、東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として
国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録
されている。 ──ウィキペディア
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白川能久親王(輪王寺宮)銅像


