2011年04月20日

●「河井継之助と北越戦線の最後」(EJ第3041号)

 「今町の戦い」で勝利した長岡藩の河井継之助を中心とする列
藩同盟軍は、虎視眈々と長岡城奪還を狙っていたのです。河井は
長岡城の奪還だけでは十分ではなく、長岡を落とすと同時に小千
谷も奪還する必要があると考えていたのです。そうしないと、奪
還しても長岡を守り切れないからです。しかし、それにはあまり
にも兵力が不足していたのです。
 それに河井にとってひとつ心配な藩があったことです。それは
新発田藩です。新発田藩は列藩同盟に加盟しているのに派兵を渋
り、協力的ではなかったので、河井としては新政府軍に寝返るこ
とを心配していたのです。結局、新発田藩がしぶしぶ兵を出して
きたのは6月中旬のことだったのです。米沢藩の圧力に新発田藩
が屈したからです。
 新政府軍にも問題があったのです。それは参謀の黒田清隆(薩
摩)と山形有朋(長州)の不仲です。これによって、新政府軍の
作戦の統一がとれなかったのです。しかし、新政府軍内では、北
越戦線をこのままにすると、長岡も小千谷も奪還されるという危
機感が出てきたのです。
 そこで新政府軍は兵員の増強に乗り出します。そして新たに投
入した兵力が3000人を超えた時点で、総攻撃を7月25日に
設定したのです。新政府軍としては今町の奪還が急務であり、軍
を栃尾と今町に集結していたのです。
 これに対し河井継之助を中心とする列藩同盟軍は、あくまで長
岡と小千谷の奪還を目指したのです。そのための決死隊として、
長岡藩の全兵力に当る約700人の兵力を編成し、その決行日を
7月20日と決めたのです。
 しかし、その決行当日は大雨で渡河する予定の大沼沢八丁沖が
増水していたので、決行は24日に変更されたのです。しかし、
新政府軍はこの河井の作戦を予想していなかったのです。
 24日の日没を待って河井率いる決死隊は、長岡城の東北にあ
る大沼沢八丁沖を数時間かけて渡り、一挙に長岡城を急襲したの
です。これを「八丁沖の戦い」と呼んでいます。
 そのとき、新政府軍の兵は、25日の総攻撃に備えて今町・栃
尾方面に集結し、長岡には兵は手薄だったのです。長岡には山形
有朋、西園寺公望、前原一誠らの新政府幹部がいたのですが、急
襲を受けてやっとの思いで、脱出したといいます。
 しかし、列藩同盟軍は、長岡奪還に成功したあと、一気に小千
谷を攻めることはできなかったのです。どうしてかというと、指
揮官である河井継之助が左足に骨折銃創の重傷を負ってしまった
からです。
 既に述べたように、河井継之助は長岡藩の事実上の藩主であり
強いリーダーシップを持っていたのです。軍も河井の命令であれ
ば高い士気でそれに応えていたのです。それだけに、河井の負傷
は、長岡軍全体の士気を大きく奪い、小千谷への追撃戦など到底
できる状態ではなかったのです。
 新政府軍と列藩同盟軍とでは兵力数も装備も違い、軍艦も持っ
ていないのです。つまり、最初から勝てる戦いではなかったので
す。そういう状況において2ヵ月以上も抵抗した北越戦線の粘り
は凄いものであったといえます。しかし、同盟軍の敗戦を加速さ
せたのは、新発田藩の裏切りであったのです。
 列藩同盟軍が長岡を奪還した次の日──7月25日の新政府軍
の動きを歴史学者・保谷徹氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 七月二十五日、北越戦争を決定づける作戦が決行された。新潟
 の北方10キロ、阿賀野川河口近くの松ケ崎──太夫浜付近に
 新政府軍が上陸したのである。参謀黒田清隆が指揮する約千名
 の部隊は薩摩・長州・芸州兵などが主力で、軍艦摂津(政府)
 ・丁卯(長州)に護衛され、千別丸(柳川)・大鶴丸(筑前)
 に乗船した。錫懐丸(加賀)・万年丸(芸州)が物資運搬にあ
 たったので、参加した蒸気艦は六艦であった。すでに同盟側に
 は艦船はなかったが、用心のため上陸用の漁船などを佐渡で徴
 発し、これを曳航した。上陸地点は新発田藩の海岸で、新発田
 藩の内応は約束済みであった。二十五日早朝に部隊が上陸する
 と、ほとんど抵抗も受けないまま、南下して信濃川をはさんで
 新潟の対岸にあたる沼垂まで進軍した。この地点にあった新発
 田兵はたちまち新政府軍の先鋒部隊となった。 ──保谷徹著
        『戊辰戦争/戦争の日本史18』/吉川弘文館
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして7月29日、長岡は再び新政府軍によって再占領された
のです。重傷の河井をはじめ列藩同盟軍は、会津と米沢に落ちて
行ったのです。河井は長岡兵と一緒に八十里峠を越えて駕籠で会
津に落ちて行ったのですが、峠を越えたのはちょうど8月4日の
ことです。その峠で河井はわが身を自嘲しながら、次の有名な歌
を読んでいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
        八十里 こしぬけ武士の越す峠
―――――――――――――――――――――――――――――
 八十里峠を越えると、会津藩の只見村なのです。河井は只見村
着くと、会津若松より治療に来た松本良順によって診察を受けた
のですが、きわめて重傷であり、松本の勧めで医療設備の整って
いる会津若松で治療するため、只見村を出発したのです。しかし
塩沢村に着いたとき、容体が悪化し、8月13日にそこで息を引
き取っています。享年43歳の若さであったのです。
 列藩同盟軍は、会津領の加茂での戦闘を最後に全ての戦闘を放
棄して越後から撤退したのです。新発田の北方30キロに位置し
ていた村上城は8月11日に陥落し、越後の同盟軍は完全に一掃
されたのです。もともと列藩同盟は急拵えのに同盟であり、ひと
つが崩れると、あとはあっけなかったのです。北越戦線はこのよ
うにして終ったのです。
          ──  [明治維新について考える/51]


≪画像および関連情報≫
 ●「河井継之助と山本五十六」のブログ
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  河井継之助と山本五十六は長岡の出身で、深い因縁をもった
  二人であった。長岡を中心とする中越から上越国境の魚沼地
  方は一年の3分の一が雪に閉ざされてしまう。深い雪、長い
  冬、厳しい寒気、そして貧しさ。この風土の越後に育った人
  は律義さと忍耐強さで知られている。ともに忘れてならない
  のは進取の気性にも富んでいることである。長岡人は、常に
  「いっちょ前」の人間になることを目指していた。深い雪に
  長い間閉ざされ、忍従の生活を強いられ,はけ口のないエネ
  ルギーがある一点を目指して蓄積されそして爆発していく。
  河井継之助と山本五十六,更に過去に遡れば上杉謙信と、ス
  トイックに自分の信念を説き、ついには忍耐が切れ、爆発へ
  と向かっていく様は何か共通したものがあるように見える。
  長岡人の血には「なにごとかなさざればやまず。しかも他人
  の手を借りることなく」の熱情が流れているという。
   http://explore525.blog45.fc2.com/blog-entry-110.html
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北越戦争の経過.jpg
北越戦争の経過
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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