2011年04月19日

●「新政府軍が苦戦した北越戦線」(EJ第3040号)

 小千谷は、現在の新潟県のほぼ中央、越後平野の南端にあり、
中越地方に属している都市です。閏4月21日、新政府軍は、山
道と海道に分かれて進軍していますが、山道軍は小千谷を占領し
そこに総督府を置いたのです。
 長岡藩の河井継之助は新政府軍の進軍に危機感をいだいて、小
千谷の総督府に軍監の岩村精一郎を訪ねて行ったのです。この時
点で長岡藩はまだ奥羽列藩同盟に加盟しておらず、中立を主張し
ていたからです。
 河井継之助は軍監の岩村精一郎に会って、次のように懇願して
いるのです。
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 総督府から出兵・献金すべしとの命令をうけながら今だに従わ
 ず誠に謝する所を知らない。しかし、それは藩主に異心があっ
 てのことではなく、藩内の議論が分れて一定しなかったからで
 ある。その上、会津や米沢、桑名の諸藩兵が長岡城下にきて、
 薩長は私心を挟んでおり真の官軍ではないから抵抗すべきであ
 ると迫り、むげに断わればたちまち戦争になる恐れがある。こ
 のようなやむをえない事情があって朝命に応ずることなく今日
 に至ってしまった。だがしばらく時日をかしてもらいたい。そ
 うすれば会津、桑名、米沢の諸藩を説得出来る。だから今直ち
 に軍兵を進めるのを停止してもらいたい。そうでなければたち
 まち大乱となり、人民に塗炭の苦を受けさせることになる。
             ──『河井継之助伝』/佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、岩村は聞く耳を持たなかったのです。河井は途中で席
を立とうとする岩村の裾をとらえて懇願したのですが、岩村は応
ぜず、藩主名義の嘆願書すら受け取らなかったのです。仕方なく
河井はすぐに長岡藩に戻り、戦闘の体制をとったのです。
 新政府軍はすぐに兵を起こし、長岡藩の領土に軍を進めてきた
のです。慶応4年(1868年)5月4日、長岡藩は奥羽列藩同
盟に正式に加入し、その後列藩同盟の越後の中核として戦うこと
になるのです。河井は岩村との会談が決裂したときは、このよう
にすることをあらかじめ決めていたのです。これにより長岡藩は
新政府軍にとってやっかいな相手になるのです。
 もともと河井継之助としては、列藩同盟の案づくりに参画はし
たのですが、一藩武装中立の立場を貫く予定であったとされてい
ます。河井継之助とはどういう人物なのでしょうか。
 河井継之助については、司馬遼太郎の長編小説『峠』があまり
にも有名です。この小説は、昭和41年(1966年)11月か
ら昭和43年5月まで「毎日新聞」に連載され、連載終了の年に
新潮社から出版されています。この小説によって、それまでほと
んど無名であった幕末から戊辰戦争時の越後長岡藩の家老・河井
継之助の名を一躍世間に広めることになったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         司馬遼太郎著
         『峠』上・下巻/新潮文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 河井は、鳥羽・伏見の戦いの前の慶応3年(1867年)に藩
主牧野忠訓とともに藩士60名を従えて大阪に行き、慶喜に出兵
が得策でないことを提案しています。そして、もし武力に訴える
のであれば、大津口と丹波口を固めて敵を包囲し、京都の糧食を
断ち、動いてきたときに2万の大軍で一気に殲滅するという案も
提示したといわれます。
 これらの作戦は、慶喜の優柔不断によって実行されることはな
かったのですが、河井はなかなかの戦略家であったのです。長岡
藩は鳥羽・伏見の戦いで、警護とはいえ参加しているのですが、
処分の対象にはならなかったのです。
 江戸に戻った河井は、慶喜にまったく戦う気がないことを見抜
き、藩主を帰国させています。そして河井は、長岡藩の江戸藩邸
を処分して3万両余りを手に入れ、その金で外国商人から最新式
の銃砲と弾薬を手に入れて、長岡に持ち帰るのです。
 その中には、当時日本には3門しかないといわれた「ガトリン
グ機関砲」2門があるのです。ガトリング機関砲は、外部動力・
多銃身式に分類される構造を持ち、複数の銃身を外部動力(人力
やモーターなど)で回転させながら、給弾・装填・発射・排莢の
サイクルを繰り返して連続射撃を行う機関銃の前身です。
 さて、高田を進発した新政府軍の海道軍は、柏崎を経て、一気
に長岡の西方に出てきたのです。そして5月19日に、朝もやを
ついて信濃川を渡り、背面から長岡城に肉薄してきたのです。長
岡城側は、山道軍と海路軍の両軍の攻撃を受けることになり、河
井は防戦したものの、ピンチに陥ったのです。
 そこで河井は、ここはいったん退くべきだと判断し、藩主父子
を落とした後で、河井は城に火を放って、栃尾(とちお)という
ところに退却したのです。そのさい、河井はほとんどの兵を失わ
ずに退却をし、列藩同盟による援軍の到着を待ったのです。
 調子に乗った新政府軍は、さらに前進を続け、森立峠、浦瀬、
見附、今町まで進み、その先鋒は長岡勢のいる栃尾にまでおよび
信濃川以西では与板・出雲崎を占領したのです。それは破竹の勢
いであり、このままでは越後全域を制圧する勢いだったのです。
 しかし、新政府軍の戦線は80キロに伸び、それを確保するに
は兵力が足りなかったのです。これに対し、米沢藩や庄内藩など
から援軍が到着し、同盟軍の兵力は増強されつつあったのです。
同盟軍は加茂に本営を置き、反撃の機会を窺っていたのです。そ
して、6月2日、新政府軍が本営を置く今町に激しい攻撃を加え
て今町を奪還、政府軍を栃尾から長岡に追い払ったのです。
 このあと、約2ヵ月間にわたり、戦線は膠着状況に陥ってしま
うのです。戊辰戦争において、新政府軍が最大の苦戦をなめさせ
られることになります。─  [明治維新について考える/50]


≪画像および関連情報≫
 ●「ガトリング機関砲」についての情報
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  日本では戊辰戦争においての佐賀藩や河井継之助が率いた長
  岡藩が、ガトリング砲を実戦で使用した記録がある。河井継
  之助は戊辰戦争における局外中立を目指し、先進的な軍備の
  整備に努めて軍制改革を行い、横浜にあったファーブルブラ
  ンド商社(スネル兄弟とも言われている)からガトリング砲
  を購入したと伝えられている。当時の日本には1865年型
  ガトリング砲が3門しかなく、そのうち2門は河井が購入し
  たものだったと伝えられている。戦場では河井自身もガトリ
  ング砲を撃って応戦したと伝えられており、攻撃を受けた当
  初の新政府軍部隊は大きな損害を出したとされるが、その効
  果は局地的なもので終わり、野戦においてガトリング砲を使
  用した河井の目論見は、極めてコストパフォーマンスの悪い
  結果で終わっている。        ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア「ガトリング機関砲」

ガトリング砲/河井継之助記念館.jpg
ガトリング砲/河井継之助記念館
posted by 平野 浩 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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