震災で被災した重要拠点のほとんどを含んでおり、改めて東北地
方の重要性を思い知らされます。新政府軍が戊辰戦争において最
もその制圧に時間を要したのは、奥羽・北越戦争だったのです。
奥羽越列藩同盟が早くまとまったのは、仙台藩の玉虫左太夫、
会津藩の梶原平馬、長岡藩の河井継之助らの俊秀が作成した下案
があったからです。列藩同盟の盟約の最初の案は次の8ヵ条であ
り、後から修正が加えられています。
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一、大義を天下に伸ばすことを目的とする。
一、船を同じにして海を渡るごとく、信義をもって行動する
一、急用あるときは近隣諸藩に速やかに連絡し応援をあおぐ
一、武力で弱者を犯してはならない。機密を保持し、同盟を
離間してはならない
一、みだりに百姓を使役してはならない
一、大事件は列藩集議し、公平を旨とする
一、出兵する際は同盟に連絡すること
一、罪なき者を殺戮したり、金穀を略奪してはならない。
──星 亮一・遠藤由紀子共著
『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
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この8ヵ条の盟約は、薩長の不正を正し、不義を糾弾し、公正
正義な政治の実現を謳っています。皇国を維持し、天皇のもとに
新生国家をつくる尊皇思想に基づいたものです。奥羽越を母体と
し、北方政権を樹立して、薩長中心の国家ではなく、北方政権の
諸藩が中心となった国家を目指すというものだったのです。
この北方政権には上記の盟約だけでなく、具体的な戦略もあっ
たのです。戦略は次の5つです。
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1.白河戦略
2.越後戦略
3.庄内戦略
4.幕府戦略
5.海外戦略
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第1は「白河戦略」です。
これは白河以北に薩長軍を入れないという戦略です。白河は奥
羽の玄関口であり、戦略的な要地です。会津、仙台、二本松藩が
中心となって白河を守り、薩長軍を排除後南下し、関東方面に侵
攻して、江戸城を押さえることも視野に入れています。
第2は「越後戦略」です。
越後は、米沢、長岡、庄内、会津で守備し、信州、上州、甲州
加州、紀州とも連合の道を探る戦略です。新潟港は列藩同盟の共
同管理にすることとしています。
第3は「庄内戦略」です。
庄内方面の薩長軍は米沢藩が支援して、庄内藩の免罪を天下に
知らしめる戦略です。
第4は「幕府戦略」です。
陸軍は既に北方政権に入っているので、全力を尽くして榎本艦
隊の参戦を求める戦略です。
第5は「海外戦略」です。
世論を喚起して、諸外国を味方につける戦略。このほか、プロ
シア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請し
ています。
もともと奥羽越列藩同盟は「会津の救済」から始ったのです。
会津藩としては、最後の最後まで幕府を支えたという自負があり
勝海舟や大久保一翁が何らかのかたちで動いてくれることを期待
していたのです。
しかし、勝海舟は会津藩の救済には一切動こうとせず、むしろ
薩長の戦意を会津藩に向けさせることによって、旧幕府の安泰を
図ろうとしたフシがあります。そういう旧幕府の冷たい態度が東
北諸藩の結束を急がせたのです。
この北方政権戦略においてとくに期待されていたのは、榎本艦
隊との連携です。梶原平馬や玉虫左太夫は榎本艦隊を仙台と新潟
に配備し、必要に応じてその一部艦隊を大阪や下関、鹿児島まで
出動させ、後方を攪乱する戦略を考えていたのです。佐渡を基地
としてここに軍艦を配備し、新潟港を守るとともに同盟軍の補給
基地を確保するというものです。
しかし、その肝心の榎本艦隊は、勝海舟の命令で、品川沖を離
れることができなかったのです。勝としては、榎本艦隊を江戸の
近くに配置することによって、西郷を始めとする新政府軍との交
渉を有利に進めようとしていたのです。しかし、榎本艦隊が動け
ないことが北方政権の命運を決めてしまったのです。
こうした動きより先に北越方面では既に戦闘が始まっていたの
です。会津と並んで佐幕勢力の両翼をなしていた前桑名藩主・松
平定敬は江戸退去の命令を受けると、その領地の柏崎に来て、新
政府軍と交戦する体制を敷いていたのです。慶応4年(1868
年)2月〜3月にかけて、越後一帯は反政府勢力が結集していた
のです。
これに対し、新政府軍は、4月19日に高倉永祐を北陸道鎮撫
総督兼会津征討総督に任命し、薩摩藩士・黒田了介(清隆)と長
州藩士・山県狂介(有朋)を参謀として越後に出征させ、閏4月
19日に越前高田に到着していたのです。
新政府軍は、ここから兵を2つに分けて、山道と海道から越後
平野の要衝である長岡をはさみ撃ちにしようとしたのです。これ
に対応したのは、長岡藩の河井継之助です。河井は若年の藩主牧
野忠訓を擁して藩政の実権を握っていたのです。新政府軍の山道
軍はそのまま北に向かって進軍し、小千谷を占領したのです。
――─ [明治維新について考える/49]
≪画像および関連情報≫
●奥羽列藩同盟の誕生
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会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝
廷へ直接建白を行う方針に変更することとなる。そのために
は奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23
日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。その後、
仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟
諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による盟
約書が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した
太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟成立の月日につい
ては諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官
建白書の合意がなった5月3日とするのが主流である。
──ウィキペディア
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列藩同盟旗(会津若松)


