2011年04月15日

●「奥羽列藩同盟はどうして結成されたか」(EJ第3038号)

 白石会議において用意された奥羽鎮撫総督府へ提出する嘆願書
は全部で3つあったのです。
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   1.        会津藩家老による「嘆願書」
   2.会津藩寛典処分を求める「諸藩重臣副嘆願書」
   3.仙米両藩主連名での「会津藩寛典処分嘆願書」
                      ──佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 この東北諸藩の動きをみると、なぜこれほどまでに皆で会津藩
を守ろうとするのか不思議に思う人がいるかもしれません。それ
は、会津藩の処分が会津一国の問題ではなく、奥羽全体の問題で
あるからです。したがって、その寛大な処分を願うのは東北諸藩
の総意であることを新政権に伝えることが3本の嘆願書の狙いで
あったのです。
 慶応4年閏4月12日、仙台藩主の伊達慶邦と米沢藩主の上杉
斉憲の2人は、3通の嘆願書を持って、そのとき、仙台と白石の
中間にある岩沼というところまで出陣していた九条総督をを訪ね
て、3通の嘆願書を渡したのです。
 EJ第3034号で世良修蔵の密書の一部を紹介しましたが、
その中で仙米両藩主が3通の嘆願書を岩沼の本営に持ってきたこ
とについて書いている部分があります。そのときの表現では「夕
方の午後4時から午前0時まで粘って嘆願書を置いていった」と
なっていますが、相当事実と違うようです。
 九条総督は、両藩主の話をじっくりと聞き、嘆願書を受け取っ
ています。しかし、「醍醐をはじめ参謀にも相談する必要がある
ので独断では決められない。したがって、嘆願書は預かりおく」
といったというのです。
 既出の佐々木克氏は、このとき、九条総督はとくに下参謀につ
いて、次のようにいったという事実を指摘しています。これはき
わめて重要な指摘です。
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 御承知の通り下参謀(世良修蔵、大山格之助)などは何分六ケ
 敷者共に侯得ば、必ず異論を生じ、同意は致間敷存候。依而事
 六ケ敷に至侯節は、自分は三条実美と相成、生て再び西上は不
 致覚悟に付、御両津の御厄介に相成、再び雲霧の晴侯を待侯心
 得である。            ──『山形県史』第四巻
                  佐々木克著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の文章なので読みにくいのですが、「六ケ敷」は「むつか
しい」という意味です。次のようなことをいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 下参謀の世良修蔵や大山格之助はなかなか難しい者たちであり
 このような嘆願書を見せると、必ず異論を唱え、まず同意はし
 ないでしょう。かつて若手公卿のリーダーであった三条実美が
 禁門の変で都を追われ、長州藩を頼って落ちて行き、王政復古
 で復活したように、私も仙台・米沢藩を頼り、いずれ青天白日
 の身になるまで待ってもいいと思っている。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この九条総督の言葉は、いろいろな意味に解釈できます。当時
の公卿は身分こそ高いものの、実権は薩長の参謀に握られており
完全なお飾りであったのです。とくに九条が仙米両藩主と会った
閏4月12日には、参謀の大山格之助は秋田に、世良修蔵は福島
にいたのです。
 そのため、九条総督の身辺を守護するのは、かたちのうえでは
仙台藩ということになるのです。したがって、総督としては仙米
両藩主にあまりきついことをいいたくはなかったので、上記のよ
うな発言をしたとも考えられるのです。
 また、大山や世良がこのような嘆願を受け入れるとは思えない
ので、それがダメであることを暗に匂わせ、その決定は必ずしも
自分の本意ではないことを事前に仙米両藩主に伝えるつもりでは
なかったともとれるのです。
 果たせるかな、閏4月17日に総督から、仙台藩に対し、会津
藩の寛典については「否」であり、早々に討ち入るべしとの沙汰
があったのです。
 もっとも総督府が拒否してくることは織り込み済みであったの
です。その場合は、会津・庄内のそれぞれの攻口で解兵し、それ
を九条総督に宣言、京都の朝廷に直接嘆願する。さらに、何らか
の方法で九条総督を世良修蔵から引き離し、総督を仙台に移すこ
とを考えていたのです。また、沢副総督と大山格之助を引き離す
工作も行う手はずになっていたのです。
 しかし、ここに予期せざることが起こったのです。閏4月20
日の仙台、福島藩士による世良修蔵の暗殺です。これにより、計
画が大きく狂ってしまったのです。しかし、この世良修蔵の暗殺
劇が、本当に偶発的なものであったか、あらかじめ計画されたも
のであったのかについては不明です。
 閏4月19日に会津藩兵は突如として出撃し、白河(小峰)城
を占拠しています。この城は東北の玄関口といわれる戦略上の重
要拠点であり、これも計画に入っていたものと考えられます。
 この世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷に直接建白する方針
を変更することになったのです。そのためには一層結束を強める
必要があるとの判断から、閏4月23日に新たに11藩を加えた
白石盟約書が調印されたのです。
 その後、場所を仙台に移し、いくつかの修正を行い、5月3日
に25藩による盟約書が調印されたのです。同時に会津・庄内両
藩への寛典を要望した太政官建白書も作成されたのです。
 急ごしらえであったというもの、これだけの大盟約が短期間で
結成されたのは奇跡に近いものがあります。それだけ強い危機感
があったわけです。――─  [明治維新について考える/48]


≪画像および関連情報≫
 ●伊達慶邦についての情報
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  同盟政府の最高機関・列藩同盟公議府が仙台領内の白石に置
  かれたのも、仙台藩主伊達慶邦の影響によるものである。白
  石は仙台城下を「母都市」とする「第二の仙台」であった。
  仙台藩と会津藩には、同盟政府の盟主として擁立した輪王寺
  宮を「東武皇帝」として即位させる計画があった。ただし、
  輪王寺宮の即位については、すでに「即位した」とする説と
  「即位しなかった」とする説があり、はっきりしていない。
  また同盟政府において、伊達慶邦は征夷大将軍に、その「弟
  分」に当たる松平容保は、征夷副将軍に就任する予定であっ
  た。                ──ウィキペディア
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伊達慶邦/上杉斉憲.jpg
伊達 慶邦/上杉 斉憲
posted by 平野 浩 at 04:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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