2011年04月14日

●「庄内討伐令をめぐる青森藩の思惑」(EJ第3037号)

 秋田藩が奥羽鎮撫総督府に庄内藩討伐に関して出した質問とは
次の3つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.       庄内藩討伐の理由は何か
     2.     庄内藩降服の際における処置
     3.会津藩征討応援と庄内藩征討の関係如何
                      ──佐々木克著
       『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうち、1と2に関しては、戦いをするときあらかじめ、示
すべき基本事項であり、質問を出されて答えるのはお粗末の極み
です。3については、秋田藩は会津藩討伐の応援の命を既に受け
ているので、それをどうするのか確かめたものです。
 これに対する総督府からの回答は、2と3に関しては次のよう
なものであったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     2の回答/開城して降服した時のみ赦免する
     3の回答/   会津征討の応援は要らない
                ──佐々木克著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、1に対する回答は何であったのでしょうか。
 表向きは、旧幕府が鳥羽・伏見の戦いに敗れ、関東に逃げたあ
とも庄内藩は徳川家の回復を主張したこととされていますが、庄
内藩が江戸市中取締の任に当っていたときの江戸薩摩邸への砲撃
などが根にあることは明らかで、薩摩藩の私怨です。
 庄内藩処分の罪状については、秋田藩だけでなく、米沢、仙台
などの諸藩からも抗議が次々と奥羽総督府に寄せられたのです。
このように過去の遺恨にこだわって追討令を連発する総督府のや
りかたに対して、東北諸藩は怒りが高まっていたのです。
 奥羽鎮撫総督府・副総督の沢為量を大将とする討庄軍が動いた
のは、慶応4年4月14日のことです。17日に山形城に着き、
20日に天童城下、23日に最上川沿いの新庄まで進み、ここを
本陣としています。
 そして24日の早朝に東北ではじめての戦闘が、清川口ではじ
まったのです。戦闘の詳細は省略しますが、前半は互角、後半は
庄内藩優勢で戦闘が展開され、閏4月4日に庄内軍が天童城を焼
き払ったあと、藩主の命により、撤退したのです。以下は、「酒
井忠宝家記」の記述による戦闘の模様です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 白兵戦が始まってから、庄内藩の弾丸がよく命中しだして敵に
 大打撃を与え、そのうち敵来襲を知った狩川村農民数百人が、
 村中の神社寺院から幕や旗を持ち出し、敵の背後の山に登って
 ときの声をあげ、鶴岡から援兵も馳せつけたら、敵はおそれて
 退却した。庄内軍は大いに意気あがり、勝ちに乗って急襲した
 ら、敵は太鼓を鳴らして潰走した。
              ──「酒井忠宝家記」『復古記』
                ──佐々木克著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この戦闘で苦しい立場に立たされたのは秋田藩です。庄内藩征
伐令は秋田藩に下っているので、どうしても庄内藩と一戦を交え
る必要があったのです。
 しかし、秋田藩としては、なるべく庄内藩とは戦闘をしたくな
いので、引き延ばしを図ったのですが、閏4月6日に総督より進
軍の厳命が下り、戦端を開かねばならなくなったのです。
 そのさい、秋田藩家老は、庄内軍隊長に対して次のような書面
を送っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 隣国の親みもあり、干戈を動かさないで鎮撫されたいと副総督
 に陳情したが聞き入れてもらえなかった。しかも重ねて出兵の
 催促があり、この上申し立ては勅命に背くことにもなるので、
 やむを得ず出勢するから、その点御承知ありたい。
         ──『秋田県史』/佐々木克著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦闘前にこのような書面を送るのですから、双方とも最初から
本気でやる気はさらさらなかったのです。秋田藩と庄内藩の戦闘
は、閏4月19日から22日まで行われたのですが、せいぜい小
競り合い程度であり、死者は1人も出ていないのです。
 どの藩も戦争などしたくない──これは東北諸藩の思いなので
すが、新政府はどんどん討伐令を出してくるのです。何とかしな
ければ・・・これが「白石列藩会議」を生むのです。閏4月4日
に白石への参集を訴える書状が東北諸藩に回されたのです。米沢
藩家老・竹股美作、同千坂太郎左衛門、仙台藩家老・但木土佐、
同坂英力の4家老の名での呼びかけです。
 白石列藩会議が開かれたのは、閏4月11日です。このとき米
沢藩主・上杉斉憲は、1700の兵を率いて白石会議に乗り込ん
でいます。それは強い意気込みのあらわれであったのです。
 会議はその日の夕刻から開催されています。参加したのは、仙
台・米沢をはじめとする14藩の代表33名です。しかし、仙米
両藩主は会議には参加せず、仙台藩家老・但木土佐が司会を務め
たのです。
 議題になったのは、会津藩に征伐令が出ていることで、同藩か
ら謝罪嘆願書が出ているが、その処理をどうするかです。謝罪嘆
願書の内容に異議がなければ、奥羽総督府へ提出したいという提
案なのです。参加している東北の諸藩は、明日はわが身というこ
ともあるので、異論はなかったのです。
 実は、仙台藩と米沢藩は、狙い目は九条総督その人であり、嘆
願書を直接手渡せば、道は拓けると考えたのです。朝廷と薩長を
分けて考えたわけです。薩長の参謀との交渉は成功しないと考え
たのです。    ――─  [明治維新について考える/47]


≪画像および関連情報≫
 ●佐々木克著『戊辰戦争/敗者の明治維新』/ブログ批評より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戊辰戦争の全貌を、著者の佐々木克は自らの出身地でもある
  東北地方の視点、すなわち敗者の視点から描いた。もっとも
  激烈な戦闘が戦われた東北・新潟の奥羽越列藩同盟による抵
  抗はあまり目立っていないのである。これは新政府が薩長を
  中心とし、天皇・朝廷の権威を利用・独占し朝敵としてこれ
  らの抵抗を圧倒的な軍事力で押しつぶしその後もこの戦争の
  結果を自らの正統性を確立する梃子にしようとしたからであ
  る。東北地方の差別・軽視という感情を拡大あるいは作り出
  すことにもなったのである。
   http://www.honnomushi.com/review/2004_07/0016.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

佐々木克氏の本.jpg
佐々木 克氏の本
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。