は、次の3つの拠りどころがあったからです。
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1.藩内強硬派突き上げ
2.会津藩内の軍制改革
3.庄内藩との軍事同盟
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会津藩には、佐川官兵衛をはじめとする主戦派が多く、容保に
徹底抗戦を突き上げていたのです。こういう状況では、容保に恭
順を勧める側近は新政府側に通じているとして、疑いの目で見ら
れたのです。その犠牲者の一人が神保修理という人物です。
松平容保は、会津藩の軍制改革が必要であると感じていて、佐
川官兵衛と神保修理の2人を西洋文明輸入の門戸である長崎に遣
わし、内外を視察させていたのです。
鳥羽・伏見の敗戦のあと神保修理は長崎から大阪に戻り、容保
に大阪を引いて江戸に帰ることが得策であり、慶喜とともに恭順
を尽くすべきであると説いたのです。しかし、このことを知った
会津藩の主戦派は、修理を西軍のスバイとみなし、攻撃するよう
になったのです。
容保は、修理が会津に帰ると、主戦派に危害を加えられること
を案じて和田倉門の上屋敷に幽閉したのです。勝海舟はこのこと
を聞き、修理の身を案じて慶喜に話し、公命をもって修理を呼び
寄せようとしたのです。しかし、このことが一層神保修理に対す
る疑いを増幅させ、彼らは容保に対し、修理の切腹を迫ったので
結局、容保は神保に切腹を命ぜざるを得なかったのです。
容保は、いずれ迎え撃つことになる薩長の戦力をよく知ってい
るので、帰藩すると、直ちに軍制改革に取り組んだのです。その
軍制の最大の特色は、部隊を年齢別に再編したことです。会津軍
制は、「四神」にちなんで師団編成を行っていますが、「四神」
とは、中国・朝鮮・日本で、伝統的に天の四方の方角を司る次の
霊獣のことです。
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1.朱雀 ・・・ 南 → 朱雀隊 17〜35歳
2.青竜 ・・・ 東 → 青竜隊 36〜49歳
3.玄武 ・・・ 北 → 玄武隊 50歳以上
4.白虎 ・・・ 西 → 白虎隊 16〜 7歳
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朱雀(すざく)隊は実戦機動部隊、青竜(せいりゅう)隊は封
境守備隊、玄武(げんぶ)隊と白虎隊(びゃっこ)隊は予備部隊
としたのです。これに砲兵隊、遊撃隊を加えて、約3000人で
正規軍を編成しています。これに加えて、町農兵の募集も行い、
3080人が編成され、その他を合わせて全部で7000人ほど
の兵力になったのです。
軍制改革には銃砲装備とフランス式訓練を取り入れ、旧幕府陸
軍歩兵差図役・畠山五郎七郎、砲兵差図役・布施七郎、騎馬差図
役・梅津金弥らによって日夜訓練が続けられたのです。しかし、
銃砲装備に関しては十分なものが揃えられなかったのです。会津
藩は7年間に及ぶ京都守護職の仕事で財政は底をついており、十
分な銃砲装備ができなかったのです。
3つ目は庄内藩との軍事同盟です。この同盟がうまく行くかど
うかは、米沢藩を説得できるかどうかにかかっていたのです。い
わゆる「会庄同盟」は次のことを目指していたのです。
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会津・庄内が一致して米沢藩を説得する。米沢藩が同盟に加わ
れば、仙台もただちに同盟するだろう。仙・米・会・庄の四藩
の同盟が成ったら、奥羽諸藩は一言にして同盟するにちがいな
い。そこで、速やかに兵を江戸に出し、江戸城を軍議本営とし
て諸藩の兵を合せて凶徒を掃い、君側を清める。─『復古記』
──佐々木克著
『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
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ところが、庄内藩は無理やり朝敵とされ、奥羽総督府によって
討伐令を出されることになるのです。慶応4年(1868年)4
月6日に総督府九条道孝は、秋田藩に庄内藩討伐を命じ、津軽藩
に秋田の応援を求めたのです。そして庄内討伐のため、副総督の
沢為量の庄内表への出陣を命じたのです。
どうしてこんなことになったのでしょうか。既に述べたように
もともと薩長を中心とする新政権は、京都守護職の会津藩と江戸
市中取締りの庄内藩には強い敵意を抱いていたのです。そうであ
るとはいえ、どうして、庄内討伐令が出される事態になったので
しょうか。
奥羽2州には旧幕府領があり、新政府は3月26日にその領地
の没収を命じています。ところが、その領地の中の羽州村山地方
に7万4千石の領地があるのです。旧幕府は、その領地を3月5
日に庄内藩の預け地にしています。それは、庄内藩の江戸市中取
締りの功労に報いたものと思われます。
ところが3月26日の新政府による没収とその中に含まれる庄
内藩の部分が重複し、それぞれが管理する代官が鉢合わせになる
事態が生じたのです。しかし、庄内藩としては、その土地の所有
にそれほどこだわっていなかったのです。
しかし、庄内藩はその代官所に収納してあった前年度の貢租米
2万3千俵は当然庄内藩のものであるとして、それを船で酒田に
廻送したのです。ところが軍資に欠乏していた総督府は、その米
こそが欲しかったのですが、庄内藩の言い分は筋が通っており、
反論できなかったのです。
こういう経緯で庄内藩討伐令が出されたのですが、新政府に近
いといわれる秋田藩でも庄内藩討伐令の根拠が示されていないと
して、総督府に3つの質問状を突きつける事態になったのです。
――─ [明治維新について考える/46]
≪画像および関連情報≫
●神保修理についての情報
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会津内部では、長輝の処罰を容保に迫る動きが加速する。長
輝の窮地を救おうと親交のあった幕臣の勝海舟は、身柄を幕
府に引き渡すよう慶喜を通じて画策したが、これが裏目に出
て抗戦派の怒りを買った。長輝を処断すべしと動いた有志ら
の陰謀により三田下屋敷に移送された長輝は容保との謁見も
許されず、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられた。
君命と偽った命であると知りながらも、是に従うのが臣であ
る、と潔く自刃する。 ──ウィキペディア
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神保 修理


