月」なのです。明治5年まで使われていた旧暦は、月の満ち欠け
を基準にしていたので、1ヵ月が29日か30日なのです。
これですと、しだいに季節とずれてきてしまうので、数年毎に
日でなく月を追加して調整していたのです。これが閏月です。世
良修蔵が暗殺されたのは、慶応4年閏4月20日のことですが、
この年は4月の後に閏4月が来るのです。
さて、どうして仙台藩は、世良修蔵の暗殺にまで踏み込んでし
まったのでしょうか。会津追討令の出された慶応4年1月17日
の時点まで時計の針を戻してみましょう。
17日に京都に滞在していた仙台藩家老但木土佐は、京都御所
内の政府仮政庁に出頭を命ぜられたのです。そこで但木は一通の
文書を渡されたのです。
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その藩(仙台)一手を以て本城(会津若松城)を襲撃すべきの
趣出願、武道を失わず憤発の条神妙の至り、御満足に思し召さ
れ候・・・願いの通仰せ付けられ候間、速やかに追討の功を奉
すべき旨、御沙汰の事。 ──佐々木克著
『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
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この文面を見ると、仙台藩が会津藩の本城に攻め入ると新政府
に自ら願い出たので、それを差し許すというかたちになっていま
すが、仙台藩は誰もそんな申し出などしていないのです。さらに
同じ日に、秋田藩、盛岡藩、米沢藩には仙台藩を手伝うよう命令
が出されていたのです。
実は新政府は仙台藩については警戒心を抱いていたのですが、
秋田藩については、信頼していたらしく、「秋田藩は東北の雄藩
であり、深く尊皇の大義を知っている」という内容の内勅を岩倉
具視自ら秋田藩に渡しているのです。
新政府が仙台藩に対してこういう文書を突き付けたのは、一種
の威嚇であり、それに対する仙台藩の出方を伺うきわめて政治的
なものであったといえます。
しかし、仙台藩としては、命令が出た以上は、かたちのうえで
も兵を出す必要があったのですが、奥羽鎮撫総督府一行が仙台入
りするまでは動かず、それを待つことにしたのです。そして、一
行が3月23日に仙台に入ってきたので、仙台藩主の伊達慶邦が
九条総督に挨拶に赴いています。
そして3月27日になって仙台藩は約1000人の将兵を会津
藩境に出向き、4月11日には藩主自ら約5000人の兵を率い
て出兵しています。あくまでかたちだけの偽装出兵です。
3月25日、会津若松のある旅館で仙台藩と米沢藩の代表が会
談をしていたのです。仙台藩は玉虫佐太夫と若生文十郎、米沢藩
は木滑要人と片山仁二郎であったのです。
会談の内容は、会津藩に恭順の証しとして具体的に何を提案さ
せるか、そしてそれをいかにして奥羽鎮撫総督府に飲ませるかと
いうことです。実はこういう調停工作はこれまで何度もやってい
るのですが、奥羽鎮撫総督府を納得させる謝罪嘆願の証しは会津
藩からは出てこなかったのです。
本当は奥羽鎮撫総督府が仙台にやってくるまでに、京都で折衝
すべきだったのですが、結論の出ないまま仙台で協議することに
なってしまったのです。会津処分については、仙台藩主の伊達慶
邦が参謀の世良修蔵に会って、会津藩謝罪の周旋をしたいと話し
謝罪の条件として奥羽鎮撫総督府はどのくらいものを要求するの
かを聞いたのです。
世良は、何回も征伐命令を出しているのに、周旋工作とは何事
かと怒り、もし、条件を示せというなら、次の3つしかあり得な
いといったのです。
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1.松平容保の斬首
2.嗣子若狭の監禁
3.会津鶴ヶ城開城
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こんな過酷な条件を会津藩が飲むはずがないのです。また、こ
ういう条件を平気でいう総督府の参謀と交渉してもまとまるはず
がないので、そういうときには京都に使いをたてるしかない──
仙台・米沢両藩は、そのさいには有志列藩が結束してある程度力
をバックにしないと効果はないと考えたのです。
そこで、仙台・米沢両藩は、会津藩に対して次の3項目の修正
案を提示したのです。
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1.開城で罪を謝す
2.削封で罪を奉じ
3.重臣の首級3つ
──佐々木克著
『戊辰戦争/敗者の明治維新』/中公新書455
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しかし、会津藩はこの条件に同意しなかったのです。既に庄内
藩と軍事同盟を結んでおり、会津藩はかなり強気になっていたの
です。重臣の首級などは問題にならないとし、開城については何
としても避けたい。何とか削封だけで交渉して欲しいと無理なこ
とをいってきたのです。
さすがに仙台・米沢藩はこれでは交渉できないといったところ
最終的に前藩主松平容保が城を出て謹慎するという案を出してき
たので、一応それを了としたのです。これ以上会議を重ねても会
津藩は妥協しないと判断したからです。
そして閏4月1日に、仙台、米沢、会津の3藩で会合を持ち、
交渉条件を確認し、今後の方針について話し合っています。その
とき庄内藩と同盟を結んだ会津藩は非常に強硬だったのです。
――─ [明治維新について考える/45]
≪画像および関連情報≫
●「鶴ヶ城」についての情報
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戦国期には当地に葦名氏の「黒川城」があり、蒲生氏郷が文
禄元年(1592)に甲州流の縄張を用いて郭を築き、7層
の天守閣、櫓をたて、馬出を作ったと伝えられる。また地名
を若松と改め、城を鶴ヶ城と命名した。慶長の大地震(16
11)で傾き長い間放置されていたが、加藤明成の時代に、
鶴ヶ城の大改修に着手。大手門を北側、天守閣を5層に改め
石垣を改修・新築、出丸を拡張、空堀に水をたたえるなど、
鶴ヶ城を現在のような形態とした。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/shiseki/tsurugajo.html
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鶴ヶ城/会津若松


