密書は、『仙台戊辰史』の中に全文の記載がありますが、非常
に長文なのです。世良は、仙台の奥羽総督府や福島で現在起きつ
つあることを秋田に滞在する同じ参謀の大山格之助に報告し、今
後どうすべきかについて自分の意見を述べているのです。
密書の前半部分には、白河にいた世良のところに仙台藩の坂本
大炊なる人物がやってきたということが書かれています。密書に
は書かれていないのですが、坂本大炊が世良に会った本当の理由
が『仙台戊辰史』には書かれています。坂本は仙台藩家老の但木
土佐に次のように訴えているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
会津藩の降伏を総督府が受け入れないのは、世良がそれを拒ん
でいるからであるということは、奥羽列藩の所見に過ぎない。
もし、このために暴挙に出る者があっては、さ らにまた時局
を困難なものとする愚がある。そこで、私が世良の元に出向き
彼に対して、会津藩の嘆願書を受理して、奥羽列藩を解兵させ
奥羽鎮撫の実を挙げるように篤と説得してきたい。
―――――――――――――――――――――――――――――
しかし、世良は坂本のその説得に対し、即答を避けて「その件
についてはいずれ九条総督と相談の上、追って沙汰する」とだけ
答え、坂本の説得は結局失敗に終わっているのです。
世良の密書には、仙台と米沢の両藩主が岩沼の総督府にやって
きて、会津藩の降伏謝罪についての「三通の嘆願書」を九条総督
に渡した経緯について次のように書いてあります。
なお、ここでは、前回ご紹介した『「敬天愛人」テーマ随筆』
のサイトの現代文訳の要約を示しておきます。原文などの詳細は
同サイトを参照願います。
―――――――――――――――――――――――――――――
会津藩に関する降伏謝罪嘆願書三通を仙台と米沢の両藩主が岩
沼の総督府へ持参し、かつ弁舌をふるって陳情に及びました。
(中略)九条総督におかれましては、一旦三通の嘆願書を差し
返されたのですが、両藩主は総督相手に、夕方の午後4時から
夜中の午前0時まで詰め寄ったのです。そのため、ついに九条
総督はやむを得ず、その嘆願書をお取り上げになられたという
経緯が白河(の私のところ)へ知らせがありました。
──『「敬天愛人」テーマ随筆』のサイトより要約
―――――――――――――――――――――――――――――
こういう状況に対して、奥羽総督府としてはどのように対処す
べきかについて、世良は自分の意見を述べているのですが、その
中に仙台藩士を憤激させる言葉が入っていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
一旦総督が受理した嘆願書をまた返すわけにもいかず、この上
は一応京都へ出向き、奥羽の実情をじっくりと申し入れて『奥
羽皆敵』と見なして逆襲の大策を練りたいと思っております。
(省略)この書簡は、途中で奪われるのを恐れて、福島藩の足
軽にそちらに持参するように頼みました。ご覧になった後には
燃やして頂きますようお願いいたします
──『「敬天愛人」テーマ随筆』のサイトより要約
―――――――――――――――――――――――――――――
世良が暗殺される直接の原因となったのは、彼が密書において
『奥羽皆敵』という言葉を使ったからです。この言葉が、仙台藩
士達を激昂させ、彼らをしてついに世良を暗殺しようと動く大き
なきっかけとなったのです。
しかし、世良のこの密書は、以後数回にわたって書き換えられ
たという説があるのです。おそらく書き換えたのは実行犯の中心
である仙台藩であると考えられます。なぜなら、世良修蔵暗殺事
件はあとで大問題になり、仙台藩はその責任を追及されることに
なるからです。そのさい、あえて内容を過激に表現し、これなら
暗殺されても仕方がないことであると思わせるための細工をして
内容の一部を書き換えた可能性があるのです。
しかし、世良が密書において、『奥羽皆敵』という言葉を使っ
たのは真実です。さらにこの『奥羽皆敵』という言葉が、会津藩
の嘆願を受け入れることを否定し、それが逆襲の大策を練る理由
として使われていることによって、仙台藩は世良暗殺の決断を下
したものと思われます。
慶応4年閏4月19日に世良によって密書が作成され、福島藩
の鈴木六太郎らに密書の秋田までの配達の依頼をし、実際にその
密書を午前0時頃に使者に委託しています。密書を受け取った使
者は、それを「客自軒」にいた浦上主膳に手渡しています。その
とき「客自軒」には、仙台藩の姉歯武之進をはじめとする8名の
仙台藩士と福島藩士3人が集まっていたのです。
全員で密書の内容を検討した結果、「世良を暗殺するか否か」
の基準としていた「会津藩嘆願の受け入れの可否」について世良
自身は受け入れるつもりはないと判断したのです。それに加えて
金沢屋から世良が20日の午前6時に出発するとの情報を得たの
で、本営の指示を仰ぐことなく、即座に暗殺を決意して、その日
の午前2時頃に世良を襲ったのです。
世良は重傷を負い、捕縛されたのですが、仙台藩まで連行する
のは無理と判断して、福島で処刑したのです。しかし、その報告
を受けた仙台藩家老の但木土佐は愕然としたのです。但木土佐と
しては、世良を殺害するにしても、それはあくまで会津藩の手に
よってなされたというかたちを取るべきであったのに、瀬上主膳
が、福島藩にも手伝わせて、世良を公然と捕縛し、斬殺したので
会津のすべき仕事を仙台藩が全部背負い込んで、名実ともその責
に任ぜねばならぬことになったことを悔やんだといわれます。
しかし、この世良の暗殺によって、仙台・米沢藩を中心とする
東北諸藩は、反政府の立場を一段と鮮明にせざるを得なくなった
のです。もはや後には引けなくなったのです。
――─ [明治維新について考える/44]
≪画像および関連情報≫
●九条道孝についての情報
―――――――――――――――――――――――――――
九条尚忠の長男だったが、九条幸経の養嗣子となった。18
64年、国事御用掛となる。1867年には左大臣となるが
父の尚忠と同じく佐幕派であったことから、王政復古の大号
令が出されたとき、それを追及されて参内停止処分に処せら
れた。1868年に許されて摂政関白廃止後の藤氏長者に任
じられ(最後の長者)、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督に就任し
て東北地方を転戦した。明治維新後は明治天皇の相談役とな
る。また、岩崎弥太郎の勧めで、日本初の海上保険会社であ
る東京海上保険会社──現在の東京海上日動火災保険の創設
に関わる。華族制度創設時に旧摂家当主として侯爵に叙され、
帝国議会創設にともない貴族院に議席を有した。
──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――
九条 道孝


