2011年04月08日

●「世良修蔵はなぜ暗殺されたのか」(EJ第3033号)

 慶応4年4月10日のことです。会津藩と庄内藩(山形県)が
同盟を結びます。会庄同盟です。これら両藩には共通点があるの
です。それは、会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命
ぜられ、ともに朝敵とされていたからです。
 庄内藩はその職務として、当時西郷隆盛の作戦により江戸市中
を荒らしまわる薩摩の浪士たちを追い詰め、その巣窟になってい
た薩摩屋敷を砲撃するなどしたので、朝敵とされたのです。これ
は明らかに薩摩藩の庄内藩への私怨であるといえます。
 庄内藩には本間家という大地主が住んでおり、藩に多額の献金
をして、庄内藩の財政を支えていたのです。庄内藩はこの資金を
元に武器商人エドワード・スネルから大量のスナイドル銃を仕入
れ、軍備の近代化を進めていたのです。
 しかし、既に述べたように、後装式のスナイドル銃は最新兵器
ではあったのですが、新政府軍は7発連射のできるスペンサー銃
で武装しており、銃装備の点で大きくリードしていたのです。
 ちなみに本間家に関しては、次の有名な歌が知られています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会庄同盟締結のさい、庄内藩家老の松平権十郎は、もし米
沢藩が同盟に加わるならば、仙台藩も同盟に加わるということを
伝えています。
 奥羽鎮撫総督府から会津藩追討を命じられた仙台藩は、これを
何とか穏便に収めるため、同じく奥州の大藩である米沢藩と戦さ
をしない工作を始めるのです。そのさい、必要なことは「数」で
あり、数で圧力を掛けることこそ、奥羽鎮撫総督府に対する最良
の対抗策と考えて、奥羽諸藩に呼びかけて「奥羽諸藩の総意」と
して総督府に、会津藩に寛大な処分をするように求めたのです。
 しかし、それを一蹴したのは世良修蔵なのです。これによって
仙台藩が世良修蔵を殺害したことについては前回書いた通りです
が、何が仙台藩をそこまで追い込んだのかについては、もう少し
ていねいに述べることにします。
 以下の記述については、主として『「敬天愛人」テーマ随筆』
という次のサイトを参照させていただいています。詳細について
は、このサイトを参照願います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「敬天愛人」テーマ随筆
 第13回「世良修蔵暗殺事件の周辺」
 http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kakotheme.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 世良修蔵は、奥羽諸藩を訪ねて、何度も会津藩討伐の督戦を促
したのですが、その反応は鈍く、総督府内部でも、九条総督を始
めとする公卿たちは次のような意見に傾き勝ちだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 奥羽諸藩の総意として出されている嘆願書を京都の太政官に報
 告し、指示を仰ぐべきではないか
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜかというと、こういう事情もあったのです。奥羽鎮撫総督
府自体には軍隊はおらず、単独では会津藩を征伐することは不可
能なのです。もし、仙台藩との交渉がうまくいかないと、仙台藩
や米沢藩が会津藩側に味方し、逆に総督府が攻撃されかねないの
です。したがって何としても仙台藩の力を借りなければならない
のですが、かといって、絶対に弱みを見せることはできない──
それが世良の思いであったのです。
 結局世良としては、頼みになるのは福島藩しかないと判断し、
そのことを大山格之助に伝えようとしたのです。そのとき大山は
羽州(秋田)にいたのです。そこで、世良は投宿していた福島城
下北南町の旅籠「金沢屋」に戻って、時間をかけて大山宛ての書
状を書き上げたのです。
 そして世良は、福島藩の軍事掛を務めていた鈴木六太郎を呼び
出したのです。鈴木は同藩の杉沢覚右衛門、遠藤条之助の2人と
共に金沢屋に出かけて世良に会ったのです。そして、世良は3人
に次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ひとつ頼みがある。秋田にいる大山格之助参謀宛に至急の書状
 を届けて欲しいのだ。その使いの者を貴藩で人選して欲しい。
 国家のために尽力してくれ。しかし、使者は2人とし、明日の
 夜明けには出発させるようにしてもらいたい。また、このこと
 は仙台人には決して洩らさぬように。
                ──「敬天愛人」テーマ随筆
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのとき、世良の動きを見張るため、仙台藩の瀬上主膳は金沢
屋の斜め向かいの「客自軒」という宿屋に潜んでいたのです。仙
台藩は世良の動きに注目していたのです。
 ところで、世良から密書を送りたいとの依頼を受けた鈴木六太
郎以下3人の福島藩士は、その足で福島藩家老の斎藤十太夫の屋
敷に行き、事情を話して判断を仰いだのです。鈴木から事情を聞
かされた家老の斎藤は次のように指示したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         仙台藩の意向をはかれ!
―――――――――――――――――――――――――――――
 そこで、鈴木六太郎たちは、仙台藩の姉歯武之進のところに行
き、事情を打ち明けます。話を聞いた姉歯武之進は「客自軒」に
いる上司の瀬上主膳のところに相談に行くのです。
 瀬上主膳は、福島藩は密使の件は引き受けることにし、密書を
受け取ったら、それをここに持って来るように鈴木六太郎たちに
いいます。つまり、瀬上主膳は密書の中身を見る必要があると判
断したのです。密書に書いてあったことはとんでもないことだっ
たのです。    ――─  [明治維新について考える/43]


≪画像および関連情報≫
 ●世良修蔵について/「ド田舎百姓の部屋」ブログ
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  幕末から明治維新にかけて,様々な傑物が死んでいった。坂
  本龍馬・高杉晋作・久坂玄瑞などなど全て総大将クラスであ
  る。それぞれその後の歴史に相当なる影響を与えている。そ
  の中にあって「暗殺」は「坂本龍馬」と「世良修蔵」が特筆
  される。「世良修蔵」は戊辰戦争の最中にあって、総大将と
  して暗殺、なおかつ「禁門の変」での会津藩への確執などな
  ど、薩摩・長州・への影響は、計り知れないものであった。
         http://www.nishiichi.jp/wordpress/?p=201
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世良修蔵.jpg
世良 修蔵
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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