2011年04月07日

●「会津追討令に悩む仙台藩」(EJ第3032号)

 九条総督の軍は仙台入りすると、養賢堂を接収し、そこを奥羽
鎮撫総督府としたのです。養賢堂とは正しくは明倫養賢堂といい
仙台藩の藩校です。後にいろいろ改組され、現在は東北大学医学
部になっています。
 いきなり、会津追討令を受けた仙台藩としては、誠に迷惑この
うえもないな話だったのです。仙台藩は、伊達政宗を藩祖とする
東北の雄藩ですが、宮城県と岩手県に広大な領地を有していて、
公称62万石とはいうものの、実質100万石をゆうに超える豊
かな藩であったのです。
 そのためか、仙台藩士は中央の政治にはあまり関心がなく、保
守的な風土に安住して、気がついたら世の中が変わっていたとい
うところがあったのです。
 そのなかにあって、きわめて進歩的な人物がいたのです。玉虫
左太夫です。この人は、万延2年(1861年)に米国の軍艦に
乗って訪米しています。日米修好通商条約締結のための遣米使節
団に加わったのです。帰国するとその報告書を「航米目録」とし
てまとめ、優れた内容であったので、注目を集めたのです。そし
て養賢堂の副学頭を務めていたのです。
 そこに会津追討令がきたのです。仙台藩にとっては寝耳に水の
話です。会津藩は幕府の命令で鳥羽・伏見の戦いに参加したので
あり、会津自身は戦闘を奨励していないのです。その後は恭順し
ており、朝廷による討伐は厳し過ぎると玉虫は考えたのです。
 そこで、玉虫左太夫は何とか水面下で会津を救援したいと考え
たのです。何はともあれ、会津藩首脳の話を聞く必要がある──
玉虫左太夫は、仙台藩の正使として、部下を連れて会津に向かい
ます。会津藩は、前藩主の松平容保以下、梶原平馬らの重臣はす
べて顔を揃えて玉虫たちを迎えたのです。
 忌憚のない意見が相互に交わされ、会談は成功裏に終わったの
です。その会談の成否は次のエピソードによって、それが成功で
あったことを示しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会談の記録は『仙台戊辰史』に記載されているが、注目さ
 れるのは会津の主君容保と左太夫の会話である。
 会談が終わって、
 「玉虫、そちはいけるとか、大杯をとらせよう」
  容保がいうと、玉虫は、
 「恐れながら小生、大杯(大敗)を嫌います。小盞(勝算)を
 賜りたい」
 といったので、皆が声をあげて笑ったという件がある。これは
 仙台藩の心意気を示したものであった。
               ──星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 会津藩の真意を掴んだ玉虫左太夫は、無駄とはわかっていたが
和平工作を先行させる必要があるとして、仙台、米沢藩が会津の
謝罪嘆願書を取りまとめ、総督府に提出したのですが、参謀の世
良修蔵がこれを一蹴してしまいます。嘆願書などいらぬ、あくま
で戦争だと主張したのです。
 この当時、新しい東北を創るために中心になって動いていたの
は、次の3人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
        仙台藩 ・・・ 玉虫左太夫
        会津藩 ・・・ 梶原 平馬
        長岡藩 ・・・ 河井継之助
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼らは新政府軍の正体は薩長軍であり、錦の御旗によって官軍
と偽っているということで一致し、これが奥羽越列同盟に発展す
るのです。そして仙台藩は、次のように声明を発して、仙台藩の
手による会津追討に反対を表明したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 王政復古、後一新のおり、会津征討とは合点がゆかぬ。徳川家
 は恭順し、会津も深く悔悟し、嘆願書を提出したと聞く。かつ
 て御所に発砲した長州は、首謀者3人の首級で寛典となったで
 はないか。   ──星 亮一・遠藤由紀子共著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、奥羽鎮撫総督の九条道孝は温和な人物であり、自分が奥
羽に行けば話し合いができると考えていたようです。それに恭順
嘆願書も出ているので、戦争にはさせないというと楽観的に考え
ていたようです。
 しかし、参謀の大山格之助や世良修蔵が受けてきた内命は正反
対のものであったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  奥羽を火の海にして明治政府に反抗する旧権力を叩き潰せ
―――――――――――――――――――――――――――――
 大山や世良にとって九条道孝総督などは飾り物であり、その意
見は完全に無視されたのです。しかし、仙台藩の動きは素早かっ
たのです。仙台藩の家老の但木土佐や坂英力は断を下し、命を受
けた瀬上主膳と姉歯武之進2人は、福島の旅館に泊まっていた世
良修蔵を襲い、殺害してしまうのです。これによって、仙台藩の
意思は明確に示されたのです。
 しかし、その時点での新政府軍の戦力は圧倒的なのです。まし
て、鳥羽伏見の戦い、彰義隊の上野戦争、振武軍の飯能戦争の3
つの戊辰戦争に連戦連勝で勝ち誇っているのです。玉虫、梶原、
河井の3人は、どのように戦略を立て、強大な新政府軍に立ち向
かおうと考えていたのでしょうか。
 実は、彼らの練り上げた北方政権の戦略は戦略としては見事な
ものであったのです。もっと早く着手していたら・・・。これに
ついては、明日以降のEJで詳しく述べて行くことにします。
         ――─  [明治維新について考える/42]


≪画像および関連情報≫
 ●河井継之助とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  幕末に北越戦争があったのをご存じであろうか。この時の東
  軍・長岡藩総督が河井継之助である.継之助は藩を幕府とは
  離れた一個の文化的・経済的な独立組織と考え,ヨーロッパ
  の公国のように仕立てかえようとした.また,当時アジア圏
  に3門しかないガットリング砲(機関銃のような物)を2門
  手に入れ,当時最新式のミニエール銃の各藩士への払い下げ
  による武装・身分を平均化するなどの改革を行い,軍事的に
  も独立したまさにスイスのような武装中立国を長岡に築こう
  とした.         http://www.nurs.or.jp/~soryu/
  ―――――――――――――――――――――――――――

河井継之助.jpg
河井 継之助
posted by 平野 浩 at 04:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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