ば、現在世界中から注目されている福島原発のある福島県です。
戊辰戦争の第3部は東北を中心として展開されるのです。
実は新政権が仙台藩伊達慶邦に会津追討令を下したのは、慶応
4年(1868年)1月17日のことです。慶喜に対して追討令
を出したのが1月7日ですから、それに追い打ちをかけるように
会津藩に追討令を出しているのです。
既にみてきたように、鳥羽・伏見の戦いで会津藩兵は非常に勇
敢に戦い、新政府軍を悩ませたことは確かですが、そうであるか
らといって、この段階で慶喜と同様に会津藩にも追討令を出すの
は少し早過ぎると思うのです。そこに何があるのでしょうか。
もう少し詳しく調べてみます。新政権は、EJ第3024号で
も述べたように、東征大総督府に「奥羽鎮撫総督府」というもの
を置いています。その組織は次のようになっています。
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奥羽鎮撫総督府
総督 ・・・・・ 左大臣九条道孝
副総督 ・・・・・ 三位沢為量
参謀 ・・・・・ 醍醐忠敬
下参謀 ・・・・・ 大山格之助(薩摩)
下参謀 ・・・・・ 世良修蔵(長州)
―――――――――――――――――――――――――――――
他の総督府でもそうですが、実質的な軍務を取り仕切るのは参
謀──とくに下参謀の仕事なのです。奥羽総督府の場合、薩摩の
大山格之助が庄内(山形県)攻撃を担当し、長州の世良修蔵が会
津攻撃の責任者だったのです。
慶応4年3月2日、九条総督の軍は錦旗を奉じて京都を発して
います。そして大坂より海上を東北に向い、3月18日松島湾に
上陸し、同23日に仙台入りをしているのです。
会津追討令を受けた会津藩は、慶応4年2月4日に藩主松平容
保は、藩主の地位を養子喜徳に譲り、恭順の意を示しています。
そして容保は2月22日に会津若松に帰国しています。
それなのに、なぜ、会津追討なのでしょうか。
新政府軍としては、これから全国制覇を図っていかなければな
らないのです。とくに東北の諸藩は一応新政府に対して恭順の意
思を表明しているものの、機会があれば旧幕府復活の希望を捨て
ておらず、面従腹背の態度をとっている──そういう東北諸藩に
対し強いインパクトを与えるためにも、幕府の象徴的存在であっ
た会津藩を叩く必要があったのです。
しかし、それは表向きの事情であるという説もあるのです。会
津藩は幕府の命を受け、藩主の松平容保は京都守護職の地位につ
いていたのです。その会津藩を最も信頼していたのが、孝明天皇
なのです。松平容保の京都守護職就任も孝明天皇の強い要望で実
現したものです。
孝明天皇は徹底した幕府の支持者であり、尊皇攘夷が行き詰ま
り、開国に転じても一貫して幕府を支え続けたのです。この孝明
天皇の存在は、薩長や朝廷内部の討幕派にとっては最もやっかい
な存在であったといえます。
それにしても孝明天皇は慶応3年(1867年)1月30日に
36歳で亡くなっているのです。死因は疱瘡ということになって
いますが、多くの疑問があります。
この時期、もうひとつ不可解な死もあります。慶応2年(18
66年)7月20日に将軍徳川家茂が亡くなっているのです。こ
ちらは20歳です。いくら江戸時代といっても幕末のことであり
医学はかなり発達していたのです。20代や30代の時の要人が
そう簡単に亡くなるのはきわめて不可解なことです。
幕末維新に関する多くの書籍を書いている星亮一氏は、孝明天
皇の死に関する研究で、毒殺説を主張する幕末維新史の権威であ
る石井孝氏を紹介し、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
石井は従来の諸説を洗い直し、側近たちの日記や典医の伊良子
光順の記録やメモを検証し、痘瘡による死ではないとしたので
ある。その著『幕末悲運の人々』によると、正午の薬を服用さ
れて数時間たった夜七時ごろ、女官が「お上が、お上が」と血
相変えて医師のところに駆けこんだ。五人の当直医があわてて
御寝所に走ると、天皇は激しく咳きこんで吐血し、顔も真っ青
である。間もなく天皇は胸をかきむしりながら意識を失い、息
を引き取られたというのである。それではいったい、誰がなん
の目的で天皇の毒殺をはかったのか。実行犯は女官の一人であ
ろうというのが、一致した見方になつている。
──星 亮一・遠藤由紀子共著
『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
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それでは、一体誰が孝明天皇毒殺の真犯人なのでしょうか。石
井孝氏は「ずばり黒幕は岩倉具視が濃厚」と指摘しています。確
かに岩倉具視が犯人とすると、その後の展開はよく見えてくるの
です。推理小説の犯人探しではありませんが、少なくとも岩倉具
視は、孝明天皇がいなくなることによって最大の利益を受ける一
人であることは間違いがないのです。
孝明天皇の死によって不利益を受ける者は実はたくさんいるの
ですが、中でも最大の不利益を受ける人物の一人は、松平容保で
あるといって間違いないでしょう。孝明天皇は松平容保の最大の
後ろ盾であったからです。
そうであるとすると、孝明天皇崩御の秘密を松平容保が握って
いてもおかしくはないのです。岩倉具視が黒幕であるとすると、
松平容保の存在は相当気になっていたはずです。そのため朝廷は
岩倉具視の意を受けて、会津追討令を早々と出したのではないか
と考えられます。会津藩を討伐することによって疑惑隠しができ
るからです。 ――─ [明治維新について考える/41]
≪画像および関連情報≫
●孝明天皇の死と岩倉具視/「阿修羅ブログ」より
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孝明帝の死については、痘瘡(天然痘)で新だと発表された
が、イギリスの外交官のアーネスト・サトウなどは毒殺され
たという話を聞いたことを語っており、死後、間もない頃か
ら毒殺説が流されていた。その理由は孝明帝の考えは「断固
攘夷」これしかない。公武合体で倒してもとにかく神聖なる
日本に西欧の邪悪な人間を近づけてはいけない。という考え
なのである。一刻も早く朝幕連合で夷敵を駆逐せねばと思っ
ていたのである。しかし、世論は倒幕へと流れているため岩
倉具視などは倒幕の勅令を掲げて幕府を倒してしかるべき外
交対策をとって、新たな天皇を中心とした国家を作ることを
望んでいた。そのためには孝明帝が邪魔であった。だから、
岩倉が孝明帝を殺したというのがもっとも有力だった。実行
犯は岩倉の異母姉である堀河紀子ではないかといわれる。紀
子は孝明帝に気に入られており毒物を入れるチャンスはあっ
たそうな。それに、岩倉の孫である16才の具定もチャンス
はあった。
http://www.asyura2.com/0306/tyu2/msg/223.html
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星 亮一氏の本


