ない人はあまりいないでしょう。西郷隆盛の銅像もあるし、それ
に1日で終わったとはいえ、彰義隊もよく頑張ったからです。
しかし、「飯能戦争」については知る人はあまり多くないと思
います。場所も埼玉県の奥の方ですし、近くに住む人もまさか戦
争があったとは思わないからです。それに戦争といっても戦力が
比較にならず、ほぼ半日で決着がついているからです。
慶応4年5月21日、先発隊の岡山藩兵は、追討部隊と扇町屋
(埼玉県入間市)で軍議を開き、次のように4隊に分かれて進軍
することを決めています。
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佐賀藩兵 ・・・ 直竹村・鹿山村
川越藩兵 ・・・ 秩父路
大村・岡山・佐土原藩兵 ・・・ 扇町屋
佐賀・久留米藩兵 ・・・ 双柳村(飯能市)
──『彰義隊戦史』
菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』
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追討部隊はその夜のうちに行動を開始しています。大村・岡山
・佐土原藩兵は入間川を渡った笹井村(狭山市)において振武軍
の銃撃を受けますが、応戦して撃退させています。
22日午前8時、佐賀藩兵は鹿山村に入り、近くの智観寺に向
けてアームストロング砲で砲撃し、智観寺を占領しています。振
武軍は大砲を持っていないので、銃撃で対抗するしかなく、まっ
たく戦争にならなかったのです。
午前11時頃、振武軍の本陣である能仁寺に2発の砲弾が着弾
し、本堂の屋根が炎上したのです。こうなると、わずかな銃と刀
槍などの武器では抵抗するすべもなく、退くしか方法はなかった
と渋沢は後で述懐しています。
この砲撃の結果、飯能村は、能仁寺、智観寺、広渡寺、観音寺
および民家200軒が焼失してしまったのです。振武軍がきたた
めに飯能村としては大損害を被ったことになります。
このようにして、新政府軍の振武軍の追討はわずか半日で決着
がついたのですが、渋沢は尾高新五郎と一緒に上州伊香保に逃れ
草津に潜んでいたのです。
上野戦争にしても飯能戦争にしても、戦いそのものは新政府軍
の完勝ではあったのですが、いずれも首謀者を取り逃がしていま
す。上野戦争では天野八郎は捕縛したものの、輪王寺宮や義観を
取り逃がしています。飯能戦争では渋沢成一郎と尾高新五郎を逃
がしています。したがって、いつまで経っても戊辰戦争が終わら
ないのです。
一方、大村益次郎は上野戦争の決着がつくと、すぐ勝海舟の自
宅に家宅捜査を行わせています。この捜索は何かを調べるための
ものではなく、大村の勝への警告だったのです。もし、これ以上
新政府に逆らうなら、徳川家のことを含めて再考させていただく
という脅しです。勝海舟は流石にこれにはこたえたようで、それ
以降は新政府に対して恭順を誓うようになるのです。
慶応4年5月19日、新政府は「江戸鎮台」を設置して、江戸
における行政権と裁判権を徳川家から奪い、北町奉行所と南町奉
行所を廃止し、町奉行管轄地を管掌する市政裁判所を旧南町奉行
所に設置しています。これによって、江戸は完全に新政府の管理
下に置かれたのです。
そのうえで、5月24日に新政府は徳川家に対して駿河70万
石に移封することを通告するのです。勝海舟としては、石高とし
て100万石を狙い、それに加えて慶喜の謹慎を解いて駿府に移
すという目標を大幅に下回るものであったのですが、受け入れざ
るを得なかったのです。
ここでもう一度「大総督」というものを思い出していただきた
いのです。大総督とは「東征大総督」といい、旧幕府軍勢力を制
圧するために明治新政府によって設置された臨時の軍司令官のこ
となのです。要するに臨時の軍部と考えてよいと思います。
この大総督は、地域別に置かれ、江戸に関しては、東海道鎮撫
総督府に大総督がいて全権を握っていたのです。もちろん新政府
の支配下にある組織なのですが、軍を握っているため権力が強く
新政府がなかなかコントロールできないでいたのです。
とくに江戸にあっては、東海道鎮撫総督府が強大な権力を握っ
ていて、半ば新政府から独立した存在になりつつあったのです。
しかし、江戸城開城後の大総督府は勝海舟や大久保一翁に翻弄さ
れ、彰義隊を膨張させるなどのミスを犯したので、新政府は切り
札であるは大村益次郎という軍事官僚を送り込んだのです。そし
てその大村が上野戦争と飯能戦争に勝利して大総督府の権威を失
墜させたのです。そのため、それ以降の戊辰戦争の指揮は、大総
督府ではなく、軍事官僚である大村益次郎が握ることになったの
です。これは文民統制の確立を意味しているのです。
さて、徳川家は駿府(駿河・遠州)70万石の領主になったの
ですが、その落差は尋常なものではなかったのです。800万石
あったものが、たったの70万石──10分の1です。
そこで旧幕府の勘定方は、そのまま新政府に横滑りさせたので
す。そこで大久保一翁は次の文書を配ったのです。
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人多くして禄寡(すくな)し、在来の臣下を悉く扶持すること
はできぬから、この際朝臣となるか、農商に帰するか、またし
いて藩地へ供せむというものは無禄の覚悟で移住せよ。
──古川愛哲著
『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
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朝臣になると、録高は維持できるのです。きわめて有利な条件
なのですが、これに応募する者は少なく、旧臣中で千分の一ぐら
いだったのです。 ――─ [明治維新について考える/40]
≪画像および関連情報≫
●「最後の江戸奉行」/佐久間信義/新潮社
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奉行所役人は有終の美を飾ろうと徹夜で働いた。畳はすべて
真新しい青畳に替え、障子も張り替え、座敷にも玄関前の敷
き砂利にも塵一つ落ちていなかった。慶応四年(一八六八)
五月二十一日の朝、数寄屋橋門内(現JR有楽町駅付近)に
あった南町奉行所の大門は、午前六時頃から八の字なりに開
かれ、玄関の広間に与力三十人が正座し、玄関前には同心百
五十人が左右に分かれて居並んでいた。いずれも羽織袴姿だ
が粗衣で、謹慎の意を表するために月代は剃らず、髯も伸び
放題で沈痛な表情だった。それもそのはず、二百五十年にも
わたって江戸の治安を担っていた町奉行所は、本日をもって
終焉を迎える運命にあったのである。
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/610156.html
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江戸町奉行の引き渡し


