して炎上すると、その近くにいた義観は動揺し、脱出を図ろうと
するのです。既にそのとき、同じく命惜しさに震え上がっている
輪王寺宮は山内から脱出していたのです。
輪王寺宮は粗末な衣類に着替えをし、数人の供回りを連れて根
岸から三河島を経て下尾久(荒川区)に逃れています。翌日は浅
草合羽橋の東光院、17日には市ヶ谷の自証院に身を潜めていた
のですが、新政府軍の探索が厳しく、江戸中はどこも安全ではな
かったのです。
そこで輪王寺宮の側近は旧幕臣の羽倉鋼三郎の通じて品川沖に
いた榎本武楊に宮の乗船を頼み込み、了承されたのです。25日
になって、輪王寺宮の一行は榎本の出迎えを受けて「長鯨丸」に
乗船し、28日には平潟港(北茨城市)に上陸。会津を経て仙台
に入り、7月には白石(宮城県白石市)──今回の大震災での被
害地の1つ──で奥羽越列藩同盟の諸藩に祭り上げられ、軍事総
督に就任することになるのです。奥羽越列藩同盟とは、次の3藩
による同盟のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
陸奥国 ・・・・・ 奥州
出羽国 ・・・・・ 羽州
越後国 ・・・・・ 越州
―――――――――――――――――――――――――――――
覚王院義観はどうしたのでしょうか。
義観は輪王寺宮を見失い、上野から日光に逃亡し、日光から会
津に入り、輪王寺宮が仙台に滞在中の6月に再開を果たし、宮に
随行します。
大村益次郎は、佐賀藩砲兵隊の砲撃が山内に着弾をはじめた正
午頃から、江戸城の富士見櫓に上がって戦況を見守っていたので
す。しかし、なかなか黒門口が落ちず、戦況が一進一退であるの
を見て、もともと戦争に反対し、作戦にも異議を唱えていた海江
田たちが抗議をしにやってきたのです。
これに対し、大村は懐中時計を取り出し、次のようにいったと
いわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
もうまもなく上野は落ちます。心配無用
―――――――――――――――――――――――――――――
大村の言葉通り、それから間もなく上野の方向から黒煙が上が
り、それが猛火にかわると、大村は「これで戦いは終りです」と
いったのです。その大村の言葉を聞いて、江戸城内では歓声が上
がったのです。しかし、一人海江田だけは憮然としていたといい
ます。海江田は完全に恥をかかされたのです。
それでは、彰義隊の実質的な指揮官である天野八郎はどうした
のでしょうか。
天野は100人程度の隊員を伴って上野を退出し、根津から三
河島に行ったときに輪王寺宮一行に会っています。天野は同行を
願ったのですが、人数が多過ぎるとして断られ、巣鴨から音羽の
護国寺に入り、そこで再起を図ることを天野は提案したのですが
全員の同意は得られず、同意の隊員80人数を連れて、青山の梅
窓院に逃れたのです。
そのとき、人数は30人になっていたのです。彼らは再起を期
して江戸市中に散ったのですが、そのほとんどは捕縛されている
のです。天野自身も本所石原町(墨田区)の鉄砲師・炭屋文次郎
方に潜伏しているところを捕縛され、江戸城和田倉門内の糾問所
の獄に繋がれてしまったのです。
結局、天野八郎は獄中で彰義隊の結成からの顛末をまとめ上げ
11月8日に病死しています。遺体は小塚原(荒川区南千住)の
刑場の片隅に埋められたのです。天野八郎の彰義隊の顛末書の最
後には次の辞世の句があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
北にのみ稲妻ありて月暗し
―――――――――――――――――――――――――――――
ところで、渋沢成一郎の率いる振武軍は、彰義隊敗北にどのよ
うに対応したのでしょうか。
慶応4年(1868年)5月15日の開戦当日、箱根ヶ崎にい
た渋沢成一郎がそれを早馬で知ったのは、その日の夜のことであ
り、既に上野戦争は終わっていたのです。しかし、そんなに早く
敗れたとは知らない渋沢は深夜に箱根ヶ崎を出発し、16日の朝
小川村(東京都小平市)から田無まできたとき、彰義隊の敗戦を
知ったのです。そこに護国寺で天野八郎と別れた彰義隊の一団が
やってきて振武軍と合流するのです。
渋沢は、既に上野が陥落した以上、そのまま江戸に行っても意
味がないと判断し、全軍を飯能村(埼玉県飯能市)に移すことに
したのです。田無から28キロの地点です。
田無を出発した一行は、小川村で2つに分かれます。振武軍は
箱根ヶ崎に戻り、彰義隊の残党は所沢村(埼玉県所沢市)を経て
扇町屋村(埼玉県入間市)に宿陣します。そして次の18日、周
辺の住民には「甲府を目指す」といい、出発しているのです。飯
能からは山越えで甲府に出ることが可能だからです。
18日は、箱根ヶ崎と入間村からそれぞれ飯能村に向かい、い
ずれも夕方までに飯能村に入り、能仁寺を本陣と定めたのです。
その軍勢は、振武軍と彰義隊合わせて、600人前後といわれて
いますが、諸説があります。
新政府軍の振武軍の追討は非常に早かったのです。15日に彰
義隊に勝利すると、直ちに、大村、佐賀、久留米、佐土原の4藩
から成る部隊が編成され、岡山藩兵を先発隊として、20日に振
武軍追討軍は出発しているからです。
21日に川越市に入った先発隊は、振武軍の飯能布陣を知り、
22日には川越藩兵とともに飯能に向けて出陣しています。
――─ [明治維新について考える/39]
≪画像および関連情報≫
●能仁寺(埼玉県飯能市)について
―――――――――――――――――――――――――――
暮れなずむ能仁寺の山門前に立つと、この寺の歴史が光とな
り影となって、叢林の奥深くへ伸びていく。大正十一年(1
922)埼玉県が初めて指定した名勝としての天覧山を背後
に控え、門前にはここへ至る長い山道の坂下に名栗川の清冽
な流れがある。深山からの湧水を庭前に引き、その水で口を
漱いで潔斎してのち修行したという禅僧と禅宗寺院のあり様
が、そのままこの寺にも当てはまるような迦藍配置になって
いる。山門を入ると、杉林の木下に続く砂利道、参詣する人
の足音が静寂の中で心地よく響く。
http://noninji.com/introduce.html
―――――――――――――――――――――――――――
能仁寺(埼玉県飯能市)


