の攻撃は開始されたのです。当日は前夜からかなり強い雨だった
といいます。
大村益次郎が、14日に江戸市民に対し、15日には彰義隊を
攻撃するので、外出を控えるよう呼びかけたのには、別の意図が
あったのです。
江戸市民に呼び掛ければ、当然彰義隊の兵士にもその情報は伝
わります。大村は、彰義隊は烏合の衆とみていたので、そういう
情報が伝われば、兵士たちの中からは多数の脱落者が出るとみて
いたのです。果たせるかな、多くの兵士が14日中に脱走して、
3000人の兵力は1000人に減ってしまったのです。大村の
狙いは見事に当ったのです。
既に述べましたが、彰義隊の指揮官である義観や天野八郎は、
こういう事態になってもなぜか楽観していたのです。それは「会
津兵が援軍に駈けつけてくれる」ということを本気で信じていた
からです。しかし、その頃会津藩は自分の藩を守ることで必死で
あり、とても江戸へ救援に出かける余裕などなかったのです。
さらに不思議なことに、新政府軍が15日に攻めてくるという
情報すら、義観や天野には伝わっていなかったのです。つまり、
彰義隊全体の指揮命令系統が確立されていなかったのです。まさ
に烏合の衆です。天野にいたっては、15日の朝、午前7時頃に
寛永寺山内を巡視していたとき、銃声を聞いてはじめて新政府軍
の攻撃を知ったという有様なのです。敵方の情報収集を何もやっ
ていなかったわけです。
しかし、体制は整っていなかったものの、黒門口での戦闘にお
いて、彰義隊はなかなか善戦をするのです。といっても刀や槍で
の白兵戦での善戦ではなく、意外なことに、砲撃戦や銃撃戦に強
かったのです。
その当時東叡山寛永寺は今と違って敷地が36万坪もあり、黒
門とは、東叡山寛永寺の「総門」、いわば「聖域上野山の総門」
のことです。その総門が黒いことから、黒門といわれるようにな
ったのです。上野戦争の戦闘配置図については、添付ファイルを
参照していただきたいと思います。
彰義隊の砲撃戦の優位は、高いところから低いところへの砲撃
が効果的だったのです。彰義隊は、上野山内の山王台──現在の
西郷隆盛の銅像のある付近に砲台を築き、黒門に攻めかかる新政
府軍に対し、砲撃を加えていたのです。新政府軍も砲撃して応戦
したのですが、高地から低地への砲撃と、低地から高地への砲撃
では、どうしても後者が不利になります。
もうひとつの戦闘である天王寺・谷中門口には主力の長州藩と
佐賀藩の兵士を中心とする軍勢が攻撃を開始しています。しかし
この団子坂から天王寺と谷中門にいたるまでには、多くの寺院が
あるのですが、彰義隊はそれらの寺院に隠れて銃撃を行ってきた
のです。したがって、新政府軍としては彰義隊の籠る寺院をひと
つずつ攻撃して奪い、進軍するしかなかったのです。
ところが主力の長州藩兵の動きが今一つなのです。それは彼ら
の持つ銃のせいであったのです。といっても性能の古い銃ではな
いのです。長州藩兵にはこの戦いにさいして最新鋭のスナイドル
銃が配付されていたのです。この銃は銃身の後方から銃弾を装填
して撃てる銃であり、彰義隊の持つ前装銃とは比べものにならな
かったのですが、長州藩兵はこの銃の訓練を受けておらず、うま
く銃を扱えなかったのです。
そのため、長州藩兵はいったん前線から撤退し、銃の扱い方の
指導を受けることになり、その代りに佐賀藩兵が前線に出て戦っ
たのです。主力が後退したのですから、この方面軍は不利になる
と普通は考えますが、ここは佐賀藩兵が頑張ったのです。
実はこれも佐賀藩兵の持つ銃──スペンサー銃のせいであった
のです。この銃は後装銃であるだけでなく、ボルトアクションに
よって最大7連発が可能なのです。これを使えばいわゆる弾幕を
張ることが可能なのです。佐賀藩兵は長州藩兵と違い、この銃を
使いこなしていたのです。この佐賀藩兵の活躍により、天王寺・
谷中門口では彰義隊が混乱をはじめたのです。
この天王寺・谷中門口での新政府軍の優勢の報告を受け、黒門
口の司令官は突破するのは今であるとして、ある作戦を敢行した
のです。その作戦とは、黒門口の東側にあった「雁鍋」という料
理屋の2階から山王台に向けて銃撃が行われたのです。さらにそ
れと前後して、今度は黒門口西側の料理屋「松源」の2階から黒
門口の彰義隊の指揮官の狙撃を行ったことです。
さらにもうひとつ佐賀藩が活躍するのです。それは本郷台の砲
撃部隊です。佐賀藩砲兵隊はアームストロング砲を2門を使い、
不忍池越えに上野山内に砲撃を試みていたのですが、なかなかう
まく行かなかったのです。しかし、少しずつ着弾点を修正し、正
午頃には山内に届くようになっていったのです。
そしてさらに命中の精度を高めて、山内の吉祥閣と中堂に命中
させ、炎上させるまでになったのです。この砲撃に彰義隊は動揺
します。さらに「鳥源」の2階から山王台への狙撃が効果を発揮
しはじめるのです。その結果、山王台からの黒門口への砲撃が少
し弱くなったのです。
そのとき御徒町通りの薩摩藩遊撃一番隊や熊本藩兵とそれに鳥
取藩の山国隊が決死隊として、山王台脇の崖をよじ登り、山王台
に突入したのです。そして激しい銃撃戦の結果、山王台を占拠す
ることに成功します。
しかし、それでも黒門口は落ちなかったのです。しかし、西郷
の命により、広小路の薩摩藩城下士小銃隊1番隊と2番隊が黒門
口に突撃し、突破します。これに呼応して鳥取藩兵とみられる一
隊が不忍池を回り込み、佐賀藩砲撃隊が砲撃する弾道の下を潜り
穴守稲荷を攻め、これを破って山内への突入に成功します。これ
によって彰義隊は総崩れになったのです。
――─ [明治維新について考える/38]
≪画像および関連情報≫
●藤井尚夫歴史探訪/上野彰義隊戦争とは
―――――――――――――――――――――――――――
幕末維新期の戦闘で、江戸が戦場になったのは上野彰義隊の
戦闘である。彰義隊は上野の寛永寺を拠点として新政府軍と
戦闘した。寛永寺は、三代将軍家光が、江戸城をほぼ現在の
規模に整備した寛永期に、徳川家の祈願寺として建立してい
る。寛永寺は、僧天海の願いによって上野忍ヶ岡の地を占地
したと伝えられる。忍ヶ岡の南西の、本郷台地との間には、
不忍池があり、東方は隅田川の氾濫原の低地となっている。
寺の敷地は舌状台地の南端部を広く取り込んだ軍事的要地で
あり、江戸城の支城的意味も込められた占地となっている。
http://navicon.jp/feature/n-atsuhime/n-atsuhime_03-08.html
―――――――――――――――――――――――――――
●「上野戦争戦闘配置図」出典
『彰義隊戦史』/菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』より
上野戦争戦闘配置図


