2011年03月31日

●「水も漏らさぬ彰義隊殲滅作戦」(EJ第3027号)

 大村益次郎は、江戸の総督府の将校たちにも彰義隊攻撃につい
て意見を聞いています。彼らの多くは彰義隊との戦いそのものに
反対し、もし、攻撃するには2万人の兵が必要であるという意見
を述べる者もいたのです。
 とくに参謀の海江田信義は、大村の意見にことごとく反対し、
2人の人間関係はきわめて険悪になったのですが、これが後の大
村益次郎の暗殺事件の遠因になるのです。
 攻撃するには2万人の兵が必要である──この説はいささか大
袈裟ではありますが、東海道軍の戦力を前提にすると、あながち
誇大な数字ではないのです。とにかく戦力としては、明らかに彰
義隊に劣っていたからです。
 そのため、大村は、佐賀、熊本、久留米、徳島などの西国勢を
江戸に呼び寄せる手を打つと同時に、実戦経験の豊富な鳥取藩兵
を東山軍から外して江戸に集めているのです。なぜ、このような
ことをしたのかというと、西国勢の兵士は実戦経験のない新兵が
多いので、その中にベテランを投入して軍の規律を強化し、戦闘
力を高めようとしたのです。
 しかし、こういうことをやろうとすると、膨大な戦費がかかる
ことになります。その額たるやざっと50万両は必要なのです。
大村はそういう戦費調達まで、すべて自分でやらなければならな
かったのです。
 大村は、米国に建造を依頼した軍艦の支払いのために大隈重信
が用意していた25万両を取り上げ、会計を担当していた由利公
生に命じて20万両の資金をかき集めるとともに、江戸城内の徳
川家の財宝まで売り払って、やっと50万両用意したのです。こ
れで作戦に必要な銃器や弾薬などを揃えて、やっと作戦の実施段
階に入ったのです。ここまでの作戦計画をすべて大村益次郎が一
人で練り上げたのです。
 作戦内容の詳細は省きますが、概要について述べておくことに
します。なお、「上野戦争」の記述については、次のサイトの記
事をベースにして書いています。より、詳細な内容については、
次のサイトを参照願います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「上野戦争」
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/ueno/main.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 大村は、全軍を次の2つの部隊に分けて編成し、実戦部隊はさ
らに3つに分かれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.実戦部隊
     ・主攻撃部隊 ・・・ 寛永寺南方黒門口を攻撃
     ・助攻撃部隊 ・・・ 天王寺・谷中門口を攻撃
     ・ 砲撃部隊 ・・・ 不忍池越しに寛永寺攻撃
   2.警戒部隊
―――――――――――――――――――――――――――――
 寛永寺南方黒門口は、城でいうと大手門に当り、これを破るこ
とができると、勝利を手にすることができます。したがって、こ
こには、薩摩藩、鳥取藩、熊本藩の精鋭を配置しているのです。
 大村益次郎は、この作戦書を将兵に見せる前に、西郷隆盛に見
せて意見を聞いています。作戦書を見たときの西郷と大村の有名
な会話です。
―――――――――――――――――――――――――――――
     西郷 隆盛:薩摩兵を皆殺しにする気か
     大村益次郎:さよう
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、この作戦では北東の根岸方面には部隊がおらず、開
いています。これは上野で徹底抗戦をさせないための処置なので
す。四方を塞いでしまうと、玉砕覚悟の徹底抗戦をしてくる可能
性が強く、そうなると味方の損傷も大きくなるからです。
 しかし、逃げ道を明けているものの、そのまま逃がすというこ
とではないのです。絶対に江戸府中に入れないため、神田川と隅
田川にかかる橋のすべてに警戒部隊を配置しているのです。
 さらに北東に逃走した彰義隊に対しては、再起の芽を摘むため
に、重要な宿場に警戒兵を配置し、さらに佐幕色の強い川越、古
河、忍の諸藩には監視兵を送るなど、まさに水も漏らさぬ配置に
なっているのです。
 作戦実施に先立って大村は、徳川家に委任していた江戸の治安
権を剥奪することを正式に布告しています。これによって、彰義
隊が行っていた治安維持活動は公務ではなくなったのです。
 慶応4年(1868年)5月13日、大村は作戦に参加する諸
藩兵に戦闘準備を布告し、ここで作戦図を配付しています。そし
て15日戦闘を開始することを宣言します。
 それから江戸市民に対し、攻撃前日には、15日には彰義隊を
攻撃するので、外出を控えるよう布告し、さらに15日から3日
間は河川の船の往来を禁止しています。彰義隊の兵士が船を使っ
て逃げることを防止したのです。
 そして徳川家に対しては、15日に攻撃するので、徳川家の財
宝を寛永寺から持ち出すよう通告したのです。これによって15
日の攻撃を知った勝海舟は、彰義隊の覚王院義観に対し、書状を
送り、寛永寺を出るよう勧めたのですが、無視されてしまったの
です。覚王院義観は断固戦い、勝利すると宣言したのです。
 なぜ、覚王院義観が強気だったかについては諸説があります。
そのひとつの説に、会津藩兵が江戸まで援軍を送って来ることを
信じていたというのがあります。
 大村の作戦に関し、せめて夜に攻撃すべきであるという多くの
声があったのですが、大村は白昼の決戦にこだわったのです。そ
れは江戸市民の目に彰義隊の敗北を見せつけたかったのと、夜陰
にまぎれての放火を警戒したからです。
         ――─  [明治維新について考える/37]


≪画像および関連情報≫
 ●戊辰戦争時の海江田信義について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀となる。江戸城明け渡し
  には新政府軍代表として西郷を補佐し、勝海舟らと交渉する
  など活躍するが、長州藩の大村益次郎とは、もとより性格の
  不一致もあることながら意見が合わず、宇都宮の政府軍の庄
  内転戦、江戸城内の宝物の処理、上野戦争における対彰義隊
  作戦などをめぐってことごとく対立し、海江田は周囲の人間
  に「殺してやりたい」などと言うなど憎悪していた。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア

海江田信義.jpg
海江田 信義
posted by 平野 浩 at 04:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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