新政府軍から奇襲を受ける恐れがあると振武軍の総隊長である渋
沢成一郎は考えたのです。振武軍の本隊は江戸から最低でも40
キロ以上離しておく必要がある、と。
なぜ、40キロかというと、その当時の一日の移動距離が40
キロだったからです。したがって、40キロ以上あると、必ず途
中で一泊する必要があります。攻めてこられる立場に立つと40
キロ以上離れていると、情報も入ってくるし、対応策もとれるこ
とになる──これが40キロ以上離す理由です。
そういうわけで選ばれた場所は、日本橋から約45キロ、内藤
新宿から37キロ離れている箱根ヶ崎(西多摩郡瑞穂町)だった
のです。電車でいうと、八高線の「箱根ヶ崎駅」です。日光街道
と青梅街道の合流点の町です。
なぜ、箱根ヶ崎を選んだのかというと、それは飯能市に近いか
らなのです。飯能は箱根ヶ崎からの距離は約7キロと近く、付近
の諸村が一橋家の諸領であって、渋沢は何度も行ったことがあり
土地勘があるからです。
しかし、江戸から遠くに離れれば離れるほど、江戸での情報は
入りにくくなります。今のように通信の発達していない時代のこ
とですから、情報を入手する手段を講じておく必要があります。
そのため、渋沢は田無に一定の軍を配置しておき、ここを中心
に江戸に向けて、淀橋、内藤新宿、四谷、番町に斥候を置き、上
野の彰義隊の動きを監視していたのです。
ちなみに「淀橋」とは、新宿区と中野区の境の神田川にかかる
橋の名称です。当時淀橋というと、現在の西新宿の5丁目と6丁
目の西半分の地域を指す名称なのです。
もし、上野に動きがあると、田無に近い拠点に早馬を走らせ、
次々と田無に連絡を入れる仕組みです。勝利するにせよ、負ける
にせよ、上野の彰義隊の兵士は相当数が田無には集積するはずで
あり、田無は一大戦略拠点になると渋沢は考えたのです。しかし
田無から箱根ヶ崎まではかなりの距離があり、結局のところ、上
野戦争には情報の遅れで振武軍は参戦できなかったのです。その
結果、「飯能戦争」が起きることになるのです。
ここで時計の針を少し戻して、中央政権の明治政府がどう対応
したのかについて考えてみることにします。まず、江戸の実情を
正確に把握する必要がある──こう考えた明治政府は、佐賀藩の
江藤新平を江戸に派遣し、江戸の実情を探らせたのです。
江藤新平とはどういう人物であったのかについて、渋沢栄一は
次のように述べています。
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人の過ちというものは、それぞれの性質によって違っている。
・・西郷は仁愛に過ぎて、過ちを犯した。・・木戸孝允も仁愛
に傾いた人であるから、過失があったとすれば、仁愛に過ぎた
ことからきたものであろう。・・これに反し肥前の江藤新平は
残忍に過ぎる人であった。彼は人に接すれば、何はさておきま
ずその人の欠点を見破ることに努め、人の長所を見ることは後
回しにした。佐賀の乱を起こして政府と戦ったが、けっして仁
愛心から出たものではなかった。 ──渋沢栄一著
「孔子―人間どこまで大きくなれるか」より/三笠書房刊
http://www.geocities.jp/kazumihome2004/10-7.html
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江藤の調査によると、江戸の総督府が勝海舟や大久保一翁に籠
絡されており、このままでは危ないというものであったのです。
そこで新政府は、彰義隊の討伐と既に戦端が開かれている奥羽越
列藩同盟の戦いの指揮を執る責任者として元長州藩士・大村益次
郎を派遣することにしたのです。肩書きは、軍防事務局判事だっ
たのです。
大村が江戸に乗り込んでくると、総督府の幹部たちは中央政府
から派遣された大村に対して冷たい態度をとったのです。情報も
上げないし、事実を隠蔽しようとする。現在の官僚とまるで同じ
です。そのため、大村は江戸城で孤立感を深めたのです。
こういう事情を知った新政府は、直ちに大監察使・三条実美を
江戸に派遣したので、大村の孤立は解消されたのです。三条実美
が大村のバックにつくことによって、物事がスムースに動くよう
になったのです。
大村は次々と手を打って、勝海舟の戦略を潰しにかかったので
す。勝の戦略の3つの柱──彰義隊、大島率いる旧幕府歩兵隊、
榎本率いる旧幕府艦艇のうち、旧幕府歩兵隊については、東山道
軍を強化して歩兵隊を日光方面に押し込み、旧幕府艦艇に対して
は補給港を封鎖して、戦力のジリ貧化を図り、少なくとも江戸に
は接近させないようにしたのです。そのうえで、彰義隊を一気に
殲滅する作戦を練ったのです。
軍略の天才といわれる大村からみると、上野の彰義隊などは別
に戦略を練らなくても力でもねじ伏せることは可能であったので
すが、大村にはこの戦いは単に彰義隊を殲滅するだけでなく、次
の3つの目標を果たす必要があったのです。
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1.勝海舟の野望を粉砕する
2.一気に彰義隊を殲滅する
3.新政府軍の力を誇示する
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第一に3つの柱の1つを潰し、勝海舟の野望を絶つということ
です。そのためには一気に彰義隊を殲滅する必要があります。こ
れが第二です。もたもたしていると、江戸中に放火される恐れが
あるからです。大村は、勝が新門辰五郎に命じて江戸を焼き払う
作戦を知っていたからです。
そして第三に見事な勝利を収めることによって、江戸市民に新
政府軍の力を見せつけ、新しい時代の来たことを実感させること
です。 ――─ [明治維新について考える/36]
≪画像および関連情報≫
●大村益次郎とは何者か
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大村益次郎は文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現、
山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といっ
た。広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び
嘉永の初め宇和島藩に仕えて、はじめて西洋式軍艦を設計建
造。さらに江戸に出て私塾『鳩居堂』を開き、幕府の講武所
教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてもその名を高め
た。ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年、
第二次長州征伐の折に、石州口の戦いを指揮して幕府軍を破
り戦術家として脚光を浴びた。
http://www.geocities.jp/bane2161/oomuramasujirou.html
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●肖像画出典/ウィキペディア「大村益次郎」
大村 益次郎/肖像画


