2011年03月29日

●「3つの柱に支えられた勝海舟の戦略」(EJ第3025号)

 彰義隊を事実上仕切っていた輪王寺執当覚王院義観としては、
輪王寺宮が上野を離れない限り、新政府軍の攻撃を受けることは
ないと読んでいたのです。そのため、新政府としては輪王寺宮に
対していろいろな働きかけをしたのです。
 そのひとつに輪王寺宮の実父である伏見宮邦家を通じて入京を
進言してきたことがあります。とにかく輪王寺宮を上野から引き
離して、彰義隊の大義名分を奪おうとしたのです。しかし、輪王
寺宮はこれを正式に謝絶し、逆に薩摩・長州・土佐・芸州の4藩
を凶賊とする檄を発したのです。
 この時点になると、もはや彰義隊は勝海舟のコントロールの効
く存在ではなくなっていたのですが、もともと勝が描いていたと
思われる戦略について述べておくことにします。
 勝海舟の戦略には次の3つの柱があったのです。
 第1の柱は彰義隊です。既に述べたように彰義隊は単なる烏合
の衆ではなく、旧幕府から正式な組織として承認を与えられてい
るのです。渋沢成一郎は旧幕府に対して彰義隊結成を届けると共
に武器と兵糧の支給を願い出ているのです。
 これに対して徳川慶喜が後事を託した第11代将軍・徳川家斉
の実子で、前津山藩主の松平斉民が渋沢成一郎を呼び出し、粗暴
の行動がないよう十分に諭したうえで、彰義隊はその存在を承認
されているのです。
 第2の柱は元歩兵奉行の大島圭介が、伝習隊などの幕府歩兵隊
を率いて、江戸から脱出したことです。江戸城開城の条件として
旧幕府軍が保有する小銃、大砲、弾薬、軍艦などはすべて新政府
軍に提出することになっていたのですが、それを嫌った大島圭介
は武装した旧幕府歩兵隊を率いて江戸から脱出したのです。その
人数は、実に1000人〜2000人にもなるのです。この旧幕
府陸軍は、一糸乱れず、徳川家の霊山である日光方面を目指して
行進したのです。
 これに対して新政府の東海道軍は追撃する余力はなく、傍観す
るしかなかったのです。大島はそのあたりを十分見越して江戸を
脱出したのです。
 なぜ、江戸に入った東海道軍が少なかったのかというと、小栗
忠順の戦略を警戒したからです。なぜ、これが新政府軍に漏れた
かは不明ですが、東海道軍が警戒していたことは事実です。
 小栗忠順の戦略とは、もともと大軍が通れない最大の難所であ
る箱根峠において東海道軍を迎撃し、その側面を榎本武楊の率い
る旧幕府艦艇によって砲撃する作戦のことです。これを防ぐため
東海道軍は少ない人数で進軍し、江戸に入ったのです。
 第三の柱は榎本奉行率いる海軍の逃走です。江戸城開城の条件
として、軍艦の一部を新政府軍に引き渡すことになっていたので
すが、勝は約束通り、旧幕府艦艇を呼び戻し、その一部を引き渡
しています。しかし、開陽などの主力艦については温存し、榎本
武楊に預けたのです。榎本はこれらの艦隊を率いて江戸を離れ、
独自の航路に進んだのです。
 勝としては、江戸市中に彰義隊を置いて治安を撹乱させ、日光
方面に進む重武装の旧幕府歩兵隊、そして榎本武楊率いる旧幕府
艦隊──これら3つの柱によって手薄の東海道軍を心理的に牽制
し、慶喜の水戸での謹慎解消と一日も早い駿府への赴任を大総督
府に求めたのです。
 さて、ここで彰義隊を離れた渋沢成一郎のその後について述べ
る必要があります。
 渋沢成一郎は、彰義隊を離脱するのにさいして、次の2つのこ
とを約束しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.誓いて官軍とならざる事
        2.  誓いて降伏せざる事
                    ──『彰義隊戦史』
            菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』
―――――――――――――――――――――――――――――
 渋沢がこの誓いを出したのは、彰義隊は離れるが、もともと志
は同じであり、もし彰義隊が新政府軍と戦うときは、援軍として
乗り出すつもりでいたからです。
 渋沢と行動をともにした人数は百人程度といわれていますが、
菊地明氏によると、それほど大勢でなく、せいぜい数十人ぐらい
といっています。しかし、その後、渋沢の同調者の尾高新五郎が
中心になって改めて彰義隊から同志を募った結果、200名近い
人数になったといわれています。
 そこで、渋沢成一郎は、堀之内(東京都杉並区堀之内)にある
「信楽」という茶屋で会合を持つのです。そのとき集まったのは
80人〜90人程度であったといわれています。
 この茶屋で話し合われたことは、江戸から一定距離離れたとこ
ろに本部を置くという方針です。そこで選ばれた場所は「田無」
(現西東京市田無町)──堀之内から12キロ北西にある青梅街
道の宿場町だったのです。
 彼らが田無に姿を現したときは、その軍勢は300人を超えて
いたというのです。そして田無の西光寺を本陣とし、密蔵院、太
子堂、観音寺を宿舎にしたのです。そしてこの軍勢は「振武軍」
と名付けられ、渋沢成一郎を総隊長、尾高新五郎を中軍隊長兼目
付役になったのです。
 実はこの振武軍の尾高新五郎はなかなかちゃっかりしているの
です。尾高新五郎は田無に行く前に、20人ほどの隊員を連れて
飯田町(現在の千代田区)にあった旧幕府の営所に行き、新政府
軍を装って300挺の小銃を手に入れているのです。
 しかし、振武軍が田無に行ってから検討して判明したことがあ
るのです。田無は、その当時の内藤新宿──内藤新宿町は東京都
豊多摩郡にかつて存在した町の一つであり、現在の新宿と考えて
よい──その内藤新宿から16キロほどしかなく、奇襲を受ける
恐れがあったことです。─  [明治維新について考える/35]


≪画像および関連情報≫
 ●幕府伝習隊と大島圭介
  ―――――――――――――――――――――――――――
  江戸開城時に、江戸の旧幕府軍の多くは新政府に帰順したが
  伝習隊の多くは帰順しなかった。1868年(慶応4年)2
  月から4月にかけて、2000人から3000人の幕府歩兵
  隊や新選組などが江戸を脱走した際に、大鳥圭介に同行して
  伝習第一大隊、第二大隊の1100名ほどが脱走した。脱走
  した伝習隊などの約2000人は、4月12日に下総市川の
  国府台に集結して、大島圭介を総督(隊長)、土方歳三を参
  謀として部隊を編成した。その後、北関東に向かい、途中の
  小山で西軍を撃破した。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図の出典/ウィキペディア「幕府陸軍」

幕府伝習隊.jpg
幕府伝習隊
posted by 平野 浩 at 04:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Posted by 管理人 at 2011年03月30日 03:14
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